叔母の葬儀の機会に、久しぶりにキリスト教会の会合に出た。牧師さんの説教を聞いて、教会は全然変わっていないのだなとつくづく思った。その感想は二つの側面があった。一つには、自分がいかに教会から離れてしまったかをあらためて自覚したこと。もう一つには、教会が内部に閉じていて、外にいるものに向かって何か訴えるような言葉を持っていないと感じたこと。教会内部にいる人々は、永遠に変わらぬ真理に自分たちは立っているのだから、変わらないのが当然と言うだろうが。
葬儀は、日曜礼拝などの教会員の会合と違って、葬られる人に縁のあった非信者も集い、故人を弔い、遺族を慰めようとする機会である。その人たちに向かって、信じるものだけが主の身許に行ける(=救われる)、そこへいたる道は狭い、さいわい故人は篤い信仰のゆえに、今主のもとに召されたと語る。そのような語り口は、かつて内部にいたものとして、どんな意味合いかはある程度分かるが、全く外部にいて、この機会に参列した人たちに向かってどんなものなんだろう。
どの宗教もそうだが、固有の言語世界と救済の論理を持ち、この道を経ずしては救われないと説く。きわめて排他的だ。まあ、それが信仰の信仰たるゆえんだろうが、その排他性のままでは、世俗にある人々に説得力のある言葉で語りかけられないのではないか。内部にいるものは救いにあずかる。外にいる人は、可哀想に救われない、それで終わってしまう。そのままでいいのだろうか。
そんな閉鎖的な世界を作ってどうなるのか。人類全体に向かって開かれ、信じているものも、信じないものも、同じ言葉で話し合える地平に出なければしょうがないのではないか。そう感じたとき、ボンヘッファーのことを思い出していた。この人はそのことを、ヒットラーに捕らえられて獄中にあるとき、問題として受け止め、鋭く深く洞察した。しかし残念ながら、彼はナチス崩壊の直前死刑に処せられた。その洞察を実らせ、人々に語りかけることなく生涯を終えたのだった。それは教会と世界のその後にとって大きな損失だったと私は考える。しかし、彼の意志は彼の書き残したものを通し、十分に伝えられ、キリスト教会内だけでなく外部の人々にも衝撃的に受け止められた。新しいパラダイムの到来だった。在来宗教を超えた何かが、そこに垣間見えた。しかし、どのように在来の教会が変わっていくべきか、その具体像を彼は示さなかった。その時間がなかった。その後、キリスト教会は変わらなかった。彼の思想に影響され人々が、新しい教会の姿を生みだしたとは耳にしていない。むしろ彼の考えを受け止めた人は、教会内部にとどまれず、離れてしまったのだろうか。
変わらぬ固い(堅い?)説教の言葉を聞きながら、そんなことを考えていた。
2008年9月20日土曜日
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