2017年8月28日月曜日

爆縮による密度上昇と臨界量


 【何年も前に別のサイト(サイト名:核兵器の物理)に書いたものだが、そのサイトが閉鎖になってしまい、ネット上に存在しなくなった。同じ主題について書いている人が最近話題にしているので、私もかつて書いた原稿をサイト上に載せておこうと思い立った】

 爆縮(implosion、内爆)の過程で、核物質(プルトニウムやウラニウム)は爆薬による衝撃波を受けて圧縮され、密度が上がる。それによって臨界量が激減する。核兵器に装填する核物質の量はこのことを見込んで静的な(圧縮を受けていない状態での)臨界量をもとにしたものよりはるかに少なくてよい。このことは、通常の原子炉工学には縁がないので、それを説明した日本語の文献を目にしたことがない。核兵器に必要な核物質の量を問題にするとき、だいじな基礎知識なので、以下に説明しておく。

 結論を先に書いておくと、爆縮によって圧縮された状態での臨界質量Mは、密度の2乗に反比例する。

   M ∝ 1/ρ**2

(**2 は2のべき乗、すなわち2乗の意味)

 爆縮により、核物質が初めの体積の半分にまで圧縮されるとしよう(じっさいそれを越えるぐらいに圧縮されるようだ)。密度は、単位体積中の質量だから、圧縮されると体積に反比例して増加する。体積が半分になれば、密度は倍になる。上の式によれば、臨界質量は4分の1で済むことになる。

 このことを簡単な考察で導いてみる。球形の核物質だけの集合体を想定する。高速中性子により核分裂連鎖反応を持続するのに必要な半径(臨界半径、R)をおおざっぱに推定することにしよう。核分裂自由行程(mean free path for fissions)という概念が重要である。核物質集合体の中で、核分裂により発生した高速中性子が、核分裂物質の核に出会い次の核分裂を起こすまでに飛ぶ距離の平均値である。それをλと書く。臨界半径Rは、およそλ程度の大きさ(λのオーダー)になるであろうことは直感的に分かる。半径がλより小さければ、中性子が2度目の核分裂を起こさずに、集合体から漏れ出てしまう確率が高いから、連鎖反応は持続しない。半径がλより少々大きければ、中性子は集合体にとどまり、次々に核分裂を起こす確率が高くなる。連鎖反応が持続する臨界の大きさは、およそλあたりであると見当がつく。きちんと計算すれば正確な数値が求められるが、それはいま問題ではない。臨界半径はおよそλのオーダーで与えられる、

   R ~ λ   (式1)

ということで十分である。

 λは、高速中性子が飛んでいる間に、どれだけの確率で核物質の核に出会い、次の核分裂を起こすかという確率に反比例する。単位体積中の核物質の原子数Nが多ければ、それに比例して確率は増える。また、Nは密度に比例する。核分裂断面積をσとすると、

   λ ∝ 1/σ ∝ 1     (式2)

すなわち、体積が2分の1になる圧縮を受ければ、平均自由行程は半分になる。半分の距離を飛んだだけで、次の核分裂を引き起こす。

 (式1)により、平均自由行程が半分になれば、臨界半径も半分となる。平均自由行程は長さのスケールを決めているわけで、爆縮によって球体の半径などが変わっても、λでスケールした空間では何も変わっていない。臨界半径もこのスケールで見たときは変わらないはずだ。そう考えてもいい。(式1)は爆縮時にも変わらず成り立つ。

 臨界質量Mは、臨界体積 × 密度であるから、球の体積の式から

   M = (4π/3)R**3・ρ ∝ λ**3・ρ 

(式2)から

   M ∝ (1/ρ)**3・ρ ∝ 1/ρ**2

となり、臨界質量は密度の2乗に反比例することが分かる。

 核兵器に必要な核物質の量は、幾何学的構造などの設計値のもとに、核データなどを入れて精密な数値計算が行われる決められる。爆縮についても精密なシミュレーションコードが使われ、爆縮過程でどれだけの核反応が起きるを計算することだろう。しかし、臨界質量が密度の2乗に反比例することは、正確な臨界計算や爆縮の動力学に関わらず成り立つのである。

 実際の集合体内で起きる核反応は核分裂だけでなく、中性子吸収(正確には捕獲、capture)や散乱がある。核分裂性物質以外の核種も含まれている。しかし核分裂自由行程をもとにしたスケールの議論は、複雑な過程についての詳細計算を待つことなく成り立つのである。

 また、実際の核兵器では、タンパーと称する反射体が使われ、裸の球形集合体をもとにした上記の議論は、その場合どうなのか、という問題もある。炉物理の簡単な議論により、反射体付きの集合体は、半径の少し大きい裸の集合体と等価であることが知られている。したがって、上記の自由行程によるスケーリングの議論は、この場合にも当てはまるのである。

 密度依存についての説明は以上である。以下は、ついでに多少関連のある話題を書いておく。

 現在の核兵器は、ほとんど爆縮を使っている。爆縮によって密度を上げることで、臨界量を大幅に減らすことができ、しかも効率(装填された核物質のうち、どれだけが爆発時に核分裂して消費されるか。それが爆発時に解放されるエネルギーを決める)を格段にあげることができるからである。爆縮を使わない広島原爆では、装填された核物質(この場合はウラニウム235)のうち、わずか1%少々しか核分裂しなかった。これに対し爆縮を使った長崎原爆では17%の核物質(こちらはプルトニウム239)が核分裂した。効率は約15倍だった。効率がいいのは、爆縮して密度の上がった状態を、爆縮の圧力が、ある程度の時間押さえ込んむからである。核爆発がはじまると核分裂エネルギーにより、核物質の集合体は中心から外に向かって四散しようとする。爆縮による内向きの運動量が、核爆発の外向きの運動量にまさっている間だけ、核物質を超臨界に保持できる。どのくらいの時間、保持できるか。1ミリ秒ぐらい保持できれば、その間に80世代程度の核分裂連鎖反応が起き、約1kgの核物質を核分裂させることができる。爆縮による押さえ込みにより、およそその程度が可能であるらしい。

 臨界質量が密度の2乗に反比例するとなると、核兵器に装填する材料の密度をできるだけ高くすることが要請される。当然核分裂性核種の密度が高い金属が選択される。プルトニウムにはやっかいな問題があった。金属工学的にいうと低温から融点までの間にたくさんの複雑な相(違う結晶構造、したがって違う密度、同素体とも言う)があり、製造や加工が厄介である。室温で安定なアルファ相が最も密度が高く、その点では核物質材料としていいのだが、金属というより堅い鉱物といったほうがいい代物で、これを安定的に製造したり、加工したりするのは難しい。この問題を解決するためにオッペンハイマーがリクルートしたイギリス出身の金属工学のエンジニア、スミス(Cyril Stanley Smith)が、ガリウムを少量入れた合金でデルタ相を安定化するのがいいと提言した。密度という点ではアルファ相より低密度であった。これを爆縮が解決した。ガリウムで安定化したデルタ相は、爆縮をはじめるとすぐにアルファ相に相変態し、密度が増すのである。マンハッタン計画の中で技術的難問が解決されるという劇的局面がいくつかあった。これもそのひとつだった。

 臨界量の密度依存については、Jeremy Bernstein の最近の著作:
"Plutonium: A history of the world's most dangerous elements" (2007).
"Nuclear Weapons: What you need to know" (2008).
で、強調されている。私の上記の説明もこれらの著作によっている。


2015年8月27日木曜日

ハイゼンベルク・原爆・演劇「コペンハーゲン」

 山口栄一京大教授による「科学者の魂を探して」というシリーズ(日経テクノロジーOnline) を、Facebook上で継続して紹介している。これは大きな足跡を残した科学者のお墓を詣でることを通して、その科学者の生涯、特に功績や人柄を偲ぶことをテーマとしている。このところ20世紀初頭に起きた物理学革命に係わった人々を次々と取り上げている。前回のシュレディンガーに続いて、今回はハイゼンベルクである。

 ともに量子力学の創成を担った2人だ。ハイゼンベルクが先行し、シュレディンガーがあとを追った。ハイゼンベルクが原子などのミクロ世界にそれまでの物理学は当てはまらず、新しい概念と方程式が必要だとその道を切り開き、シュレディンガーがその概念を実用的な方程式に具体化した。今回の記事では、そのことだけでなく、ナチス・ドイツでの原爆開発の指導者であった面にもスポットを当てている。併せてウラン核分裂の発見者であったリーゼ・マイトナーにも言及している。
 米国で科学者たちが総力を挙げて原爆を開発したのは、当時ドイツでハイゼンベルクが核分裂エネルギーによる新型爆弾開発に乗り出しているとの噂が引き金になった。彼の能力とドイツの産業力とをもってすれば、必ずや早期に原爆開発に成功するに違いないとの恐怖心が、政治家、軍、科学者たちを駆り立てて、あのマンハッタン計画を創設し、しゃにむに原爆の実現へと総力を挙げさせたのだった。ところがハイゼンベルクを中心とするドイツの科学者たちは、核分裂爆弾なんてものはできるはずがないと早期に諦めて、大規模な開発計画を発動しなかった。ドイツにおけるそんな経緯が分かったのは戦後になってからだった。ハイゼンベルクが消極的だったのは、嫌々ながらナチスに協力させられた事情もあるし、彼の倫理観がそんな大量破壊兵器開発に携わることを許さなかったともいわれている。
 それにつけても思いだしたことがある。「コペンハーゲン」という演劇である。英国の劇作家マイケル・フレインが1998年に創作し、イギリス、次いでアメリカで大ヒットした演劇である。日本でも2001年に国立新劇場の小劇場で上演された。それを私は見たことがあった。ハイゼンベルクが、ドイツ占領下にあったコペンハーゲンで1941年、ニールス・ボーアの自宅を訪ねた。その一夜の会談を再現した劇である。ニールス・ボーアは、量子力学の創成時代に、ハイゼンベルクを指導する立場にあった先生だ。ボーアは、1939年核分裂の発見直後、たまたま米国訪問の機会があり、米国にいたフェルミ、アインシュタインら亡命科学者たち、米国の科学者たちに、この発見の衝撃を伝えた。それがアインシュタインのルーズベルト大統領への手紙を経て、マンハッタン計画始動の発端となったのだった。その後も米国を訪れ、原爆開発の状況を知る立場にあった。
  上記の演劇で、ハイゼンベルクがボーアを訪ねた目的は、米国において原爆の開発が進められているかどうか、着手しているならばその進行状況などを探るためであった。登場人物は3人。上記2人とボーア夫人。量子力学の創成期のことも話し合われた。その頃2人の間に競合関係もあった。ハイゼンベルクの着想した不確定性原理の発表に、ボーアは待ったをかけ、それを拡張した「相補性原理」を提案した。師弟関係を超えて競い合ったのだった。この会談ではその時代を想い起こし、激しく意見が対立する場面もあった。それをボーア夫人がやんわりとたしなめたりして、3人の会話が劇的に進行するのだった。
 よくぞこのような知的内容をこなしながら、緊迫したドラマを仕立てたものだと観ていて感心した。連合国側(米国が始めたものに英国の科学者たちも加わった)での原爆開発の状況をボーアは知っていながら、のらりくらりとはぐらかし、結局ハイゼンベルクは何もつかめずに退去したのだった。もしここでボーアが実情を知らせていたら、別の展開があったかも知れない。このハイゼンベルク・ボーア会談は実際にあったらしいが、その内容はその後も両者は明かしておらず、演劇は全くフィクションである。
 日本上演では、ボーア役を江守徹がやり、ハイゼンベルクとボーア夫人を今井明彦、新井純が演じた。2007年にも同じ劇場で上演されている。ボーア役は村井国夫に代わっていた。
 この演劇を見ての感想を、ホームページに書いていた。すっかり忘れていた。「演劇 コペンハーゲン」でグーグル検索したら、誰かが劇評を書いていた。それを見たら、何のことはない、自分だった。以下のリンクでごらんになってください。これを書いた頃(退職のあと)はあれこれの演劇やミュージカル、コンサートなどを鑑賞に行き、その記録をホームページに書いていたのだった。


 演劇の作家マイケル・フレインのシナリオは、詳細な作者後書きとともに出版されている。興味があればアマゾンで以下を検索してください。

マイケル・フレイン「 コペンハーゲン」 (ハヤカワ演劇文庫27)

2015年8月15日土曜日

戦後70年安倍談話を読んで

 読んでみて,なかなか良くできている、というのが率直な感想だ。新聞その他には、「引用・間接表現(お詫び、侵略、植民地支配などのキーワードは自らの言葉でない)」「主語がない」、「村山談話がきちんと継承されていない」、「バランス重視(安倍首相らしさがない)」、「妥協の産物(公明党への配慮)」などの批評の言葉が並んでいる。そのとおりだと思いながらも、これで良いと思えた。
 談話の草案は有識者会議がかなり突っ込んだ議論をして作り上げた。草案について党内の様々な人の意見を聞いた。公明党とトップ会談をした折、安倍首相は避けたかった「お詫び」の文言を入れるよう注文が付いたらしい。そんなことがあった上で出来上がったものだ。どの方面からも激しく批判されないですむものになったのは当然だし,それで良かったと思う。
 安倍色を出して村山談話を書き換えようというのが、もともと首相が考えていたことだったと聞く。それにしては「らしさ」がほとんど見られない、バランスの良いものが仕上がったと言える(後ほど少し問題点を挙げるが)。最近の安保法制の国会審議でのつまづき、それを反映しての内閣支持率の低下(逆転)なども影響しているのだろう。
 私は,これを安倍首相個人の意見というより、日本人の大部分が受け容れられる最大公約数の考えを表明した文書として読んだ。談話の後半,未来志向の部分で、「私たち」が主語になっている。それは、内閣でもないし,政治家でもない、私たち日本人のことだと読める。「私たちは、・・・を、この胸に刻み続けます」という言葉が5回繰り返されている。日本人としての覚悟であり、国際約束だと読んだ。
 それでも、少し問題を感じる部分はあった。
 まず、歴史認識。100年以上前に遡り、西欧諸国の植民地化政策がアジアに及んできたことから説きはじめる。日本が戦争への道を辿ることになった原因はそもそもここにありと言いたいようだ。日露戦争での勝利は植民地支配に反対するアジア・アフリカの人々を勇気づけたという。その流れで,日本が太平洋戦争に至る経緯は、反省の気持ち半分、あとの半分は必然であったかのように日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを力の行使によって解しよみました国内の政治システムはその止めたりえなかった」と。戦争への道は,軍部の暴走を、政治が(ということはマスコミ、ひいては日本国民が)許してしまったことにあるのではないか。
 次に、「お詫び」について。「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました・・・」と、これまでの内閣の反省の言葉を要約したあと、「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」としている。これはたしかに「間接表現」だ。安倍首相としては「お詫び」という言葉を入れるとしても,せいぜいこういう文脈でしかできなかったのだろう。
 問題なのは,「お詫び」を首相談話に書くとしても、これっきりにしてほしい、今後繰り返して「お詫び」という文言を談話に書きたくないと,安倍首相の本音をちらっと言っているところだ。

日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」

と書いている宿命を背負わせてはなりません」のところは日本語には主語がない英文では “We must not let our children ・・・” とあるこの”We” は誰なのだろうかここは安倍首相の願望なのだと考えられるお詫びは今回限りにしてほしいと言っているようだでもそれだと先に引用した「こうした歴代内閣の立場は今後も揺るぎないものであります」とも矛盾するしすぐ上で引用したパラグラフの後半しかしそれでもなお・・・」の中身とも相反しているように思う安倍首相は謝罪に言及するのは今回を最後にして今後は「過去の歴史に真正面から向き合う」程度にしてほしいといいたいのだろう
 これでは文書全体に誠意が感じられなくなってしまう。その程度の「お詫び」文言で対中、対韓関係が今後軌道に乗るのなら,それで談話の役割は果たせるのだろうが、対韓関係では「慰安婦問題」が重くのしかかってくる。この問題は、日韓平和条約で総て片が付いているはずという、政府が繰り返している理屈では解決不能と考える。この問題については、政府がはっきりとお詫びし、何らかの具体的補償をして解決すべきだと,私は考える。軍が強制的に関わった証拠がないというのは,実質を見ていないと私は考えるから。

 首相談話後の日韓関係の展開に注目していきたい。

2015年8月6日木曜日

70年ぶりに会った友

 高校同期会の会合に出た。その席でM君と隣り合った。この人と会話を交わすのははじめてだった。いや、そもそも同期にこんな人がいることをはじめて認識したのだった。大柄で、外国人ぽい風貌が目立っていた。初対面の挨拶をし,名乗りあった。名前に記憶がなかった。おそらく高校時代に同じクラスにいるとか、何かの活動で一緒になることがなかったのだろう。当時大分市には公立高校は一つしかなかった。新制高校がその年にはじめてできた。GHQの指示で学制が変わり6・3・3制が発足することになった。大慌てで、それまでの大分中学、大分第一高女、大分第二高女が合併して、一つの新制高校が発足したのだった。そのためであろう、一学年に十数組、8百人ほどの大勢の生徒がいたのだ。互いに知り合うことなく,3年間を過ごしたとしても不思議ではない。
 ところがそうではなかったのだった。彼とはそれよりずっと前、小学校4年生の一時期、それも米軍の焼夷弾攻撃で大分市が焼け野原になり、ちりちりバラバラになる直前の時期、級友として親しく付き合った仲だったのだ。

 会合の席には、私と小・中学校が一緒だった同期生が何人かいた。彼らと何かの話題で小学校(当時は国民学校と呼ばれていた)の名前が出た。旧城址(府内城)に近い、市の中心部にある小学校だった。隣席にいたM君が「私もその小学校に4年生の一年だけいました」と言い出した。「え?そうなの、僕も4年生の1学期半ばに、その小学校に転入したんですよ」と私。「その頃、私の姓はIと言いました」と彼。私の姓と一文字違い、「和泉」を「いずみ」と読むのだった。その名を聞いてはじめて、遙か遠い昔の思い出が甦った。「えーっ。和泉君だったのか。だったら思いだした。僕は、君の家に遊びに行ったことがあるよ。君、すごい絵を描いていたよね」と私。

 何がきっかけだったか、彼が描いたという絵を学校で見せてくれた。軍艦の絵だった。戦艦が波を切って進んでいく英姿がパステルで描かれていた。小学校4年生が描いた絵とは思えないほど上手だった。「家に来てごらん。もっとたくさん見せてあげる」。そう誘われて彼の家に行ったことがあった。その家のある位置すら今思い出すことができる。大分を代表する新聞社の裏手にあたり、城跡を囲むお堀から南に延びる主要道路沿いにあった。広い前庭があり、門から玄関まで距離がかなりあった。街中にこんな構えの邸宅なのだから、お屋敷と言ってもいい家だった。今回聞いた話では、それは借家で短期間住んだだけだったそうだ。当時はその家構えから、私は彼を大邸宅に住むお坊ちゃまだと思い込んだ。家に上がると、自分の部屋に案内された。そこでたくさんの彼の作品を見せてもらった。軍艦の絵だけでなく、軍用飛行機(零戦とか紫電改とか)の絵も,戦車の絵もあった。当時の少年雑誌(少年倶楽部など)は,その手の勇ましい挿画がたくさん載っていて、彼はそれを真似して描いたのだろう。それにしてもバステルの使い方、精緻な描き方が見事だった。当時のことをいっぺんに思いだし、彼にそれを話すと,彼も思い出してくれた。私の家は小学校正門の真ん前だったこと、それが教会附属の幼稚園であり、かつ、その2階が一時的に教会の牧師館になっていたのだった。彼も私の住まいに来て、庭で遊んだ覚えがあるたことなども思いだしてくれた。

 彼はたった1年しか、その家に住まなかった。その後、父親の出身地であるT集落(行政区画上は大分市だが,ずっと郊外の農村)に疎開したそうだ。だから私と同級生で過ごしたのは1年足らずだったことになる。 昭和19年、米軍機による都市爆撃が始まっていた。大分市内もやがて空襲でやられるに違いない。その前に空襲の恐れの少ない農村部へ移住する、いわゆる疎開が始まっていた。大分市には軍用飛行機を製造組み立てする航空廠があり、飛行場もあった。そこはすでに何度か爆撃を受けていた。

 私たちが5年生になった昭和20年には,東京から始まり,大阪などの大都市へ,そして中小の都市へと、米軍機の焼夷弾による都市の焼き討ち攻撃が広がりつつあった。

 大分市は、終戦の1ヶ月前、20716日深夜、B29編隊の焼夷弾攻撃を受け、街の中心部はほぼ完全に焼き払われた。目の前の小学校校舎への焼夷弾直撃を,私は目撃した。宿直の先生が消し止めて,屋根に大きな穴が空いただけだった。私の住んでいた幼稚園舎は、B29が編隊を組んで焼夷弾を落として通る筋が一本はずれたために直撃を免れた。しかし市の大部分は延焼によって焼けたのだった。私が住んだ幼稚園舎にも延焼が迫ったが、3軒先で、住民と消防によって消し止められた。

 空襲の翌日登校したのは、全校でほんの十数人だった。当時4年年生以下は強制集団疎開で郡部の村に移っていた。6年生は勤労奉仕で軍需工場に行っていた。だから登校してくるのは5年生だけだった、それが登校生が少なかった理由ひとつだったが、多くの生徒は焼け出されたり,防空壕にいて直撃が当たり、その夜亡くなった子もいた。そんなことになるのを避けて、I君の父は先見の明で,郊外の実家に疎開したのだった。それきりI君とあうことはなかった。

 それ以前も以後も、彼の家族は転々と居所を変えたらしい。父親が満州で働き始めたために,一家で満州に移った時期もあった。戦況が思わしくないと、父を残し帰国したのは幸いだった。父親は終戦時にソ連軍の捕虜となったが、シベリアへは連れて行かれなかったらしい。何かの用務で現地に留め置かれて終戦2年後に帰ってきた。俘虜の間何があったのか知らないが、父親はすっかり人格が変わっていた、と彼は話した。それが原因で両親は離婚し,母親方の姓に戻ったことで、Mに姓が変わった。中学は別だったが、同じ高校に進んだ。だが、彼をかつて友人だったI君だと認識する機会がなかった。

 詳しくは話してくれなかったが、彼はつらい青春時代を過ごしたらしい。「この同期会に出ることで、その時期のトラウマを思いだしたくなかった。それで遠ざかったいたのです。最近ようやく気持の整理が付いて,ときどき出てくるようになりました」と。

 「絵の道に進んだのかい」と,小学校時代に見せてもらったすばらしいパステル画を話題にしながら彼に尋ねた。「いえ、絵を描いたのはあの頃だけでした。その後文学を志し、日大芸術学部の文藝学科に進みました。しかし、その道で身を立てるのは難しいと判断して,しがないサラリーマンとして一生を終えました」。家庭の事情もあり、苦労したのだろう。受験時代も働く必要があったので、3年も浪人したという。大学に入ってからも、バイトと勉学との両立が難しく,思うような道に進めなかった、と、一生を顧みていた。私に向かって、どんな道を歩んだか尋ねもしなかったし、私もそれを話す気はなかった。

 数えてみると70年余、交わることのなかった彼と私の軌跡が偶然にも交叉し、再開することができた。私にも古い思い出が甦る機会となった。もし会合で彼が隣席に来てくれなかったら、いつも控えめにしている彼のことだから、こんな希有な機会はまたなかっただろう。


 戦争の時代を生き、様々な運命にもてあそばれてきたわれわれ世代の、旧い,辛かった時期をそれぞれがどう生き抜いてきたか、それを振りかえることもできた一夜だった。

2015年8月5日水曜日

軽水炉使用済み燃料からプルトニウム原爆ができるか 2.  ー 米 政 府 の 公 式 発 表 ー

 原子炉級プルトニウムを使って米国が実際の核実験を行ったことは、さまざまな文献で言及されており、その信憑性が高いと、前回書いたが、その公式発表ペーパーを入手した。

Additional Information Concerning Underground Nuclear Weapon Test of Reactor-Grade Plutonium
U.S. Department of Energy, Office of the Press Secretary, Washington, DC 20585

で、ネット上に公開されている。以下である。 公開の日付は文書にはないが、 引用文献をみると、June 27, 1994であるようだ。

以下に日本訳を示す。

『原子炉級プルトニウムの地下核兵器実験についての追加情報』
アメリカエネルギー省・報道官室(June 27, 1994)

 エネルギー省は、原子級プルトニウムを核爆発物に用いて、1962年にネヴァダ試験場で行われた地下核実験について、追加的情報を公開する。

【主要点】
・兵器級プルトニウムの代わりに、原子炉級プルトニウムを核爆発物として用いた核実験は、1962年に成功裡に行われた。
・爆発出力は20キロトンを下回った。

【背景説明】
・この試験は、原子炉級プルトニウムを核爆発性物質として用いる可能性についての核設計情報を取得するため行われた。
・この試験により、原子炉級プルトニウムが核爆発物として使用できることが確認された。この事実は、1977年7月に機密解除(公開)された。
・この追加情報を公開するのは、商用発電炉の使用済み核燃料を再処理して分離される原子炉級プルトニウムに関連する核拡散問題に公衆の注意を喚起することが重要であると考えられるからである。
・合衆国は広汎な核実験データを保持しており、核兵器開発の今後の可能性に十分な見通しを持っている。これらの情報と今回公表する低出力試験結果とを結びつけて予測すると、原子炉級プルトニウムで核兵器が製造できることは明らかである。
・1970年以前には、プルトニウムの等級を定義するのに二つの術語しかなかった。兵器級(Pu240の含有率7%以下)と原子炉級(Pu240の含有率7%以上)であった。1970年代の初頭、核燃料級(約7%から19%のPu240)という用語が用いられるようになり、原子炉級は19%超のPu240を含有するものに用いるよう変えられた。

【公表による社会的便益】
・エネルギー省長官の情報公開方針の一部として、エネルギー省は原子炉級プルトニウムを用いて1962年に行われた地下核実験に追加情報を公開した。これにより、アメリカの公衆は、使用済み核燃料再処理により分離可能な原子炉級プルトニウムの不拡散についての議論にとって重要な情報を持つことになる。また国際的な保障措置の重要性に気づくことだろう。この情報を開示することは、他国が同様な試験情報を持つなら、それを公開するよう促すことだろう。
・本情報は、国際社会において分離された原子炉級プルトニウムの不拡散管理体制をどうするかを決めるのに、有用であろう。また国際的な保障措置について要請される事項を確定し、補強するのに有用であろう。
・この情報は原子炉級プルトニウムが核兵器に用いられる潜在的可能性について他の場でなされている間違った主張を正すことになろう。

【主たる利害関係者】
・公衆。核不拡散問題を盛んに議論している公益グループにとって本情報は有用であろう。
・公益機関。利害関係者としては、環境、安全、保健グループ、歴史家、市民活動家、研究者、科学者、産業界のひとびと、及び州政府連邦政府の人々が含まれる。核実験関連の活動を監視することに興味を持つ人々には、原子炉級プルトニウムで行われた核実験に関する追加情報をえることになろう。この情報に興味を示している公共利益機関としては以下のものがある(省略、本文参照)。
・環境問題活動家。プルトニウム関連の活動について環境監視を行っている人々にとっては、原子炉級プルトニウムの利用について付加的な情報を得ることになる。それらの公益機関として以下のものがある(省略)。

【質疑応答】
Q. 核実験の正確な核爆発出力をなぜ公開しないのか。
A. どれだけの爆発力があったかを公表することは、核拡散を目論むものに有益な情報を与えることになるということで、公表しないことになった。

Q. 核実験に使われた原子炉級プルトニウムの量は?
A. この場合、特定の情報は核拡散を目論むものの利益になるので、公表できない。

Q. 米国の核兵器に使われているプルトニウムの等級は?
A. 米国は兵器級プルトニウムを使っている。7%以下のプルトニウム240を含有すると定義されているものだ。

Q.核兵器に使う場合、兵器級プルトニウムが原子炉級プルトニウムより優れているのはなぜか。
A. 原子炉級プルトニウムは、かなり放射能が強く、兵器に使う場合ややこしくなる。

Q. この核実験が公開され通り成功なら、米国はなぜ原子炉級プルトニウムを核兵器に使わないのか。
A. 原子炉級プルトニウムは、かなり放射能が強いので、兵器の設計、製造、備蓄が複雑になる。原子炉級プルトニウムを使うと、兵器の組み立て工員の放射線被曝を軽減するため、遠隔操作装置を使うことになり、大きな出費が必要となる。兵器に原子炉級プルトニウムを使うと、軍の保守要員の放射線被曝も心配しなければならなくなる。いずれにせよ、法律(Public Law 94-415)により、ライセンスを受けた設備、すなわち商用炉、で生産されたプルトニウムを軍事用に転用することが禁じられている。

Q. 実験に使われた原子炉級プルトニウムはどこから供給されたのか。
A. プルトニウムは1958年米英相互防衛協定にもとづき、英国から供給された。

Q. この核実験に実際に使われたプルトニウムの同位体成分比は?
A. 特定の核兵器、核実験に使われたプルトニウムの同位体成分比は公開しないことになっている。情報公開することで核拡散を目論むものを助けることになる。それを防止するためだ。

【以上】

 少し、追加的コメントをしておこう。
・前回書いた今井隆吉が軍縮局に招かれ、説明を受けたのは、この内容だったと推定される。核物質が英国から供給された、との情報も符合する。今井はそれを信じなかった、というか、信じたくなかったので、この内容をそのまま、我が国関係者に伝えることなく、むしろ、正反対の結論を公表したのであった(前回分参照)。

・前回文献を引用し、「原子炉級プルトニウムの原爆実験が1962年に行われたことが、1977年に開示され、一般新聞 LATimes で報道されたこと、エネルギー省の公開ペーパーにもあるとの言及があるが、その資料は入手できずにいる」と書いたが、その公開ペーパーが、上記訳出のものであった。

2015年7月26日日曜日

軽水炉使用済み燃料からプルトニウム原爆ができるか  ー 今井報告書での結論すり替え ー

【以下の記事は、筆者が2006年12月に別のHPに掲載したものである。その後そのHPが閉鎖を余儀なくされたため,閲覧できなくなっていたものを,ここに転載したものである。一部リンクが切れているが,訂正できずにいる】

 軽水炉使用済み燃料から抽出されたプルトニウムから原爆ができるか、という重要な問題について、日本の原子力関係者のあいだでは、「できない」という見解が主流になっているようだ。その根拠は、今井隆吉が書いた報告書にあるらしい。ところが、この報告書は準拠した原論文の結論をすり替え、疑問符を付け、全く正反対の結論を導こうとしたものであることを、大部分の人は気づかずにいる。さらに悪いことに、ねじまげられた結論を、ほとんどの人は鵜呑みにしている。かの技術評論家・桜井淳は、こういうことをこそ批判・吟味すべき立場にありながら、残念ながら語学力も物理の思考力もないのだろうか、原論文を読みもせずに、今井論文を引用して、間違った結論を拡散している。

 この問題について間違った判断を持つことは、大変危険なことだ。本稿では、今井報告書における「すり替え」の事実について書く。原論文での結論を導く物理的議論については、長くなるので別項で書こう。今井隆吉は日本の原子力外交を担った高名な方である。しかし科学者でないので、原論文の物理的議論を全く理解できないまま、図表のみを報告書に貼り付けたものの、唐突に木に竹を接ぐように、結論をすり替えている。読む人も原論文まで遡らず、図表の意味も分析せず、結論だけを鵜呑みにしている。これが日本の原子力界や原子力技術評論の実態なのだろうか。

【今井報告書】
 まず問題の今井隆吉の論文は、調査報告書「原子炉級プルトニウムと兵器級プルトニウム」で、(社)原子燃料政策研究会の委託を受けて、(財)電力経済研究所が行った調査の報告書で、2001年5月、上記研究会が公表している。ネット上にもある(ここ)。また、上記研究会の機関誌「Plutonium」にも掲載されて広く配布された。ネット上にある(ここ)。

 調査委託のテーマは非常に端的で「原子力発電所から取り出される使用済み燃料中のプルトニウムで核兵器が作れるか?」である。この調査報告書は上記研究所の名の下に実施され、上記研究会により公刊されているが、通常の報告書と違って、きわめて個人的意見を強く打ち出した書き方をしている。それもあってだろう、報告書の冒頭「本調査に当たって」には、今井隆吉氏の名を明記しているし、報告書本体の「はじめに」には「中身に関する責任一切は筆者個人にある」と、異色の断り書きがある。中身は、上記の委託テーマに、アメリカ側の資料を調べて技術的に答える、というはずのものだったようだ。しかし、アメリカ側の資料はすべて、核兵器利用を理由にプルトニウム平和利用を抑えようとするもので、技術的検証内容も幼稚だと、否定的結論を導いている。このように個人的で偏向した意見が、公的な調査報告書の体裁をとって発表され、それが権威をもって流布している。それが問題である。

【報告書のもとになった論文】
 技術的議論の根拠になった原論文はJ.Carson Mark の "Explosive Properties of Reactor-Grade Plutonium" (Science & Global Security, 1993, Vol 4, pp 111-128)
 である。ネット上にも公開されている(ここ)。著者はロスアラモス国立研究所、理論部(T-Division)部長の職に、1947年から1972年まであった人である。ロスアラモス研究所は、マンハッタン計画の中心であった研究所で、オッペンハイマーが所長、T-Division の部長は H.A.Bethe であったことはよく知られている。この研究所も、T-Division も、マンハッタン計画終了の戦後においても、原爆・水爆の開発・改良の中心にあったことはもちろんである。その理論部長は、アメリカの原爆開発のすべてを知り尽くしている人とみなしていい。当然、1962年に行われたといわれる原子炉使用済み燃料からの原子炉級プルトニウムを使った原爆実験のことも熟知しているに違いない。そのような人が書いた論文であるという重みを、今井は無視している。

 アメリカの核兵器科学者には、原子力法により厳重な守秘義務がある。たとえ何ごとかを知っていたとしても、秘密解除され公開された文献や事実を根拠にする以外、原爆についての技術的議論を展開できない。それが上記 Mark論文の論理展開を一見もどかしいものにしている。実験が行われ、精緻なシミュレーション計算もあり、結論は明確にあるのだが、それを明らかにできない。そこでこの論文では、マンハッタン計画時にプルトニウム爆弾の成功可能性についてオッペンハイマーが書いたメモ、という時代遅れのデータを根拠に、原子炉級プルトニウムで原爆ができるという結論を世に知らせようという、まあ苦渋の論文なのだ。それでも理論的議論は十全におこなわれていて、それを辿れば、結論には納得がいく。

 その結論はこうである。

・燃焼度を問わず、いかなる原子炉級プルトニウムでも、原爆材料に使える。
・原子炉級プルトニウムを使って簡単で効果的な原爆を設計することは、兵器級プルトニウムを使った場合に比べ、難度が高いということはない。
・原子炉級プルトニウムを使う場合の放射線被曝などの危険度は、兵器級を使う場合に比べて多少高いが、同程度の注意を払えばすむことである。特に少数だけ作るという場合なら、それでいい。組み立てラインをつくって多数作るという場合には、兵器級で作る場合に比べて、ある製造段階には遠隔操作を導入するなどの方策が必要になる。
・分離されたプルトニウムの拡散、転用を防ぐための保障措置、核物質防護については、プルトニウムについては、グレードを問わず同じとの考えで臨むべきだ。

【算術的な検証にすぎないと軽視】
 この結論を今井はMark の論文は算術的な検証であって技術の証明ではない」と一蹴している炉物理の知識があるものが読めば立派に筋の通った「技術の証明」になっていることが分かるのだが今井にはその知識がなかったのだろう英語に"rule of thumb" という成句があるおおざっぱな推定法とでもいおうか英和活用辞典には"Experienced gardeners can mix soils in the right quantities by rule of thumb"熟練した造園家は目勘定で正しく土壌を混ぜ合わせることができるとの用例が記載されているが物理の世界でも同じである基本的な物理の理解があれば手計算で正しい結論を得ることができるむしろそれができるのは物理ができる証拠である今井が「算術的な検証」と呼んだのはこの "rule of thumb" の一種であるがおよその量的な目安も得ているのであるコンピューターの進歩により何でもコンピューターが計算してくれるようになったその反面基本的な物理に基づく "rule of thumb" の議論ができない技術屋が増えたさらには "rule of thumb" の議論を今井のように馬鹿にする風潮までできてしまった嘆かわしいことだ

【爆発規模の推定】
 技術上問題になる点は、いずれ別ページで詳論するつもりだが、プルトニウム240 の自発的核分裂による中性子によって、爆縮後の最適なタイミング以前に核分裂連鎖反応が始まって、未熟爆発を起こしてしまうことである。自発核分裂中性子が、アラモゴードで最初に核実験したときのTrinity(プルトニウム240の含有量は未発表だが、数%といわれる)の何倍であるかによって、爆発力が最大の20キロトンよりどれだけ落ちるかの確率を、Mark が計算で与えている。最悪のケースでも数百トンの未熟爆発となる。原子炉級でプルトニウム240の含有量が20%だとして、5キロトン以上の原爆(広島原爆の半分程度の威力)となる確率が50%以上、20キロトンという長崎並みになるのが28%と、結論から読み取れる。最近は爆縮の技術(爆薬、その配置の設計など)が進歩しているので、確率はさらに上がり、5キロトン以上となる確率は、74%以上となる。これだけ明白な結論を出している論文を引用しながら、算術的だとして結論の確かさに疑問符を付け、ネガティブな印象を導いているのは、うなずけない。

【原子炉級プルトニウムを用いた核実験】
 実際に原子炉級プルトニウムを用いた核実験が行われたことに関しても、今井は「英国産のプルトニウムを使った」というどこにも書かれていない情報をつかんでいる。これは、米政府軍縮局(ACDA)にただ一人招かれて、この実験を行ったことについて説明を受けたさいに聞かされたことのようだ。にもかかわらず、「筆者が承知している限りでは、アメリカは軽水炉で造られたプルトニウムで核爆発装置を作り、それを爆発させ、結果を測定したという経験は持っていない」と書いている。これは聞かされた事実を、個人的印象で無理にねじ曲げて伝えているように思える。以下に引用するが、IAEA事務局長だった Hans Blix が同じ説明を米当局から間接的に受けて、考えを変えたとの情報がある。米当局は、実験の詳細は開示しないものの、各国のキーパーソンに内々に情報を伝えたのだろう。それが日本の場合、今井であったと思われる。説明を受けた当の本人が、個人的に開示された事実を信じなかったということのようだ。

【その他、追加的に】
 少し断片的に付言しておこう。
・Mark の推定は旧式技術に基づく控えめの推算であることその後昨今の進んだ爆縮技術を使えば60%超の確率で20キロトンの爆発が可能だとの論文Hubbardもネット上に公開されている
・IAEAの事務局長だった Hans Blix は、IAEA幹部が米核管理研究所からのレクを受けたあと、それまでの軽水炉使用済み燃料からのプルトニウムは核兵器材料にならないとの考えを変え、プルトニウムがその組成如何に関わらず核兵器材料たり得ることは議論の余地がないとの手紙を、同研究所に送ったとの記述が、同研究所の別趣旨の論文に言及されている(ここ)。
・上記引用の文献に、原子炉級プルトニウムの原爆実験が1962年に行われたことは、1977年に開示され、一般新聞 LATimes で報道されたこと、エネルギー省の公開ペーパーにもあるとの言及があるが、その資料は入手できずにいる。この件については、その他文献にもたびたび言及があり、信憑性は高いと思われる。
・原水禁のHPに引用されている田窪雅文「MOX燃料輸送と核拡散」(軍縮問題資料、1999/5、ここ)は、今井報告書以前のものだが、抽出プルトニウムの兵器転用をめぐる日本側の意見に対し、国際的な場でのやりとりの経緯がまとめられており、今井報告書の背景を知ることができる。これだけの国際世論ややりとりのあとでなお、今井がこのような報告書をまとめたのは、プルトニウム利用を進めたいとの日本側の政治的意図によるものであることを、知ることができる。

 なお私は、プルトニウム利用の是非と、この問題は分けて考えるべきだと思う。軽水炉からのプルトニウムから原爆ができるという事実から目をそらすべきではないと主張しているまでだ。