2008年10月12日日曜日

山下肇先生のこと


 10月9日の新聞の死去お知らせ欄が、駒場で過ごした若い頃の思い出をよびおこした。山下肇先生にドイツ語を習ったころのことである。出身校のことを書くのは控えたいのだが、この先生のいた教養学部のユニークだった雰囲気を思い出してみたい。先生自身がその当時のご自身と学部の学生たちとのことを書いている。『大学の青春・駒場』(1956、光文社カッパブックス、絶版)である。本の扉には「教師である著者と教え子の大学生たちが一つになって息づいているような生活記録」とある。私には、当時30代半ばだった先生の若々しい姿しか記憶にない。その後、教養学部長となり、退官し、去る10月6日、88歳で亡くなられた。先生の老いた姿は想像できない。若い頃のままだ。多くの著書、翻訳書がある(上記wikipediaリンク参照)。

 私が大学2年、1954年当時、学生運動は比較的穏やかだった。それでもあるとき何かが問題になった。寮を一つ改装して教官室棟に転用することだったか。その時、クラス担任兼ドイツ語購読担当だった先生の時間に、授業をつぶして、クラス討論をしたいと自治委員が要求した。クラス全員も賛成だった。先生もいいでしょうと応じただけでなく、議論に加わった。行き過ぎをたしなめながらも、私たちの生意気な意見を理解してくれた。その結果、このクラスでまとまった反対意見を、先生が次の教授会で発言しましょう、とまで約束することになった。次の授業の時、先生は、済まなそうな表情で、教授会は、私ごとき若輩が口を差し挟めるような雰囲気でなく、なにも発言できませんでした、と詫びた。背の高い先生が、しょんぼりと頭を下げる姿を見て、誰も何も言えなかった。それが、山下先生というと真っ先に思い出すシーンだ。ふだんは意気軒昂な先生であっても、若い助教授である。大先生が並ぶ教授会に学生の意見など持ち出すのは荷が重かったのだろう。たいていの先生は、授業をつぶして自治会の討論にするなどもってのほか、ここは学びの場ですなどと、やんわりとたしなめるものだ〔HP 本館に別の先生について、かつて書いた中にも、そのようなことが書いてある)。そんな中で、できるだけ学生のいうことを聞こうとする先生の存在はユニークだった。授業が終わると先生を囲んで話し込むこともあった。

 新制大学ができて数年というころだ。最初の2年間を教養課程で、語学を含めて一般教養科目を履修し、後半の2年を専門課程でそれぞれの専攻科目を修める、という骨格ができて、定着しはじめたころだろうか。この基本路線をもっとも忠実に形にしていたのが東大だった。教養学部を駒場に置き、そこで2年。後半は、本郷の各学部に移る。駒場の教養学部は、キャンパスもそこに漂う雰囲気も、旧制一高の名残をとどめていた。第2外国語履修を中心にクラスが編成されていた。当時ドイツ語を選択する人が圧倒的に多かった。クラスごとに担任教師がいて、ほとんど語学の先生が張り付いていた。

 入学して1年半経ったところで、後半に進学する学科が決まる。成績次第で希望通りにならない悲喜劇があった。教養学部での最後の半年は、そうして決まった学科別にクラスが編成替えになる。物理学科(地球物理学科と天文学科も含む)へ進むドイツ語選択クラスの担任が、この山下肇先生だった。学生と仲間のような付き合いをしてくれる、兄貴といっていいような先生として人気があった。ドイツ書講読のテキストは、物理学科進学者に配慮して、ハイゼンベルクの "Zur Geshichte der physikalischen Naturerklaerung" (自然の物理学的説明の歴史について)であった。その薄っぺらなテキストを今でも持っている。悪い紙質の各ページに、びっしりと書き込みがしてある。予習にけっこう骨が折れた記憶がある。

 激しかった学生運動が沈静化していた時期だった。すこし前までは非常に激しかった。昭和27(1952)年には「メーデー事件」(使用禁止となった皇居前広場に数千人が集まり、警官5千人と乱闘、二人の死者がでた)があり、破壊活動防止法が成立するなどした。学生たちは激しいデモをするばかりか、交番に向かって火炎瓶を投げたりしていた。私が入学のころ、共産党の路線変更で急に穏やかになった。息子が大学に入って火炎瓶を投げたりする仲間にならないかと心配していた両親にとっては、いい時期だったことだろう。

 山下先生は、旧制浦和高校の教授だったが、この学校が東大教養学部に併合されたことから、昭和24(1949)年、教養学部設立に参加した。大きな変革期だった。大学側にもさまざまな混乱があったらしいが、学生たちも騒然としていた。山下先生は、さまざまな局面で、親身になって学生の相談相手になり、個人的に面倒まで見ていた。そのことは最初に引用した「大学の青春・駒場」に生々しく記録されている。

 本のカバー裏扉には「著者のことば」としてこうある。



 昭和24年の発足いらい、私は新しい大学の青春の息吹を、学生たちとともに呼吸してきた。日本の未来をになう選ばれた青年たちが、時代の激浪に洗われながら、この駒場で、高い理想にめざめ、真理とモラルを求めている。若い人生を精いっぱいに生きている。その真摯な群像に接するとき、さながら日本の希望そのものを見る感じがする。いわば、駒場とは新しい大学、新しい日本をつくりだす一つの大きな源泉ともいえようか。その学園の内なる生命の鼓動に支えられてきた一人として、いま私はこの本を書かずにいられなかった。


 うーん、先生も若かったのだな、と思うし、エリート主義的匂いも、ちょっと。その後の著書で、「むかし若気の至りで『大学の青春・駒場』と題する小冊子を書いた赤恥の・・・」と書いている。しかし、そのような若気の至りがまかり通っていた時代が懐かしいし、その場に私もいたことを賜物と感じる。先生の冥福を祈る。

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