2008年10月31日金曜日

iPhoneの使いこなし

 iPhoneを大いに期待して使いはじめたのだが、なかなか難物である。機能満載のはずなのだが、初歩的な機能すら使いこなせないでいる。基本であるはずのネット接続が安定して確保できない。それどころかメールすらままならない。受信はできるのだが、送・返信がまともにできない。メールを最後まで書かないうちに、すべてが消えてしまうことがある。何行も書いて、さて送ろうとする寸前、画面が突然消えてしまうのだ。せっかく書いたものは、どこにも残っていない。なんということだ。何度もそれを繰り返し、書いたものが消えるのが怖くて、1、2行書いてたところで送る始末。HPやブログをパソコン並みに読めるのはずなのだが、ページが表示されるのはいいとして、読んでいるうちに、突然消える。そのたびに舌打ちして、こんなもの使いものになるかと毒づいていた。

 多少分かってきたのは、使い方が悪かったということだ。ふつうのパソコンに慣れ、そのつもりで使っていたのが間違っていた。内蔵メモリーというのか、キャッシュメモリーというのか、それが少ない。それをやりくりして、情報量の多いウェブページを表示したり、一時記憶したりしている。キャッシュが足りない状態で、メールを書いたりしていると、日本語変換がひどく遅くなる。そこへメール受信とかほかのジョブが割り込むと、処理不能になり、破綻してすべてがおシャカになる。書きかけの文書を保存しておく余裕などないのだ。

 電源オフをせずに、スリープを挟んで使い続けていた。それがいけなかった。何かを書いていて日本語変換の途中で全然動かなくなった。にっちもさっちもいかない。強制シャットダウンをして、再起動してみた。その時、突然問題が解決した。俄然サクサク動くようになった。メールだって長文を最後まで書いて送れる。ネット読みで途中でダウンすることもない。NYTの記事やコラムニストの論説の全文をゆっくりと読める。これまでは、読んでいて最後まで終わらないうちに落ちていたのだ。何のことはない、これまでキャッシュがごみで満杯の状態で使っていたのだ。

 対策、ひんぱんに電源オフ、再起動をする。ホームボタンの長押しだけでもいいらしい。これでずいぶん使いやすくなった。

 まだまだ、問題はある。このブログにiPhoneから書き込みができるはずである。先日東京滞在中に専用アプリを使って送ってみたのだが、書いたはずのエントリは、どこかに消えたままだ。メールを送るだけでも書き込めるらしい。それはまだ試みていない。iPhoneで撮った写真をここに掲載することもできずにいる。

 他方、これはいいと重宝して使っている機能はあれこれある。グーグルと連繋したいくつかの機能、リーダー、ドキュ、カレンダー。RTMというToDo処理ソフト。iPhoneとこれらの機能なしにはやっていけないほどだ。

 iPhoneをひいき目に見て使っている。これは進化途中の将来型の携帯端末だ。当然まだまだ課題は多い。ハードが期待されている能力に十分対応していない。iPhoneのファームウエアはもっと進化する必要があるだろう。これはオンライン・バージョンアップで対応してくれるだろう。それより現状のままでも、それをどう使いこなすか、まだ分かっていないことが多々あるようだ。また、ネットに繋ぐ環境が不十分だ。携帯の電波は能力不足だ。それを補う無線LAN接続がユビキタス〔いつでも、どこでも)になっていない。その他もろもろ。

 ちっちゃくて、力足らずだが、何とか使いこなしてみるぞ、と思わせる可愛いヤツだ。

2008年10月22日水曜日

「クローズアップ現代」のキャスターに注文をつける

 NHKの時事問題解説番組「クローズアップ現代」(月ー木、午後7:30ー8:00)のキャスターをしている国谷(くにや)さんという女性、たしかにこの種の問題を扱うのに抜群のセンスがあるのだろうが、この人の日本語にはがまんがならない。とてもふつうの日本語教育を受けてきた人とは思えない。外国育ちのバイリンガルなのだろうか。日本語をまるで英語を話しているかのように、変なメリハリをつけて話す。日本語らしいメリハリがついていればいいのだが、そうではない。強調点と関係ない部分に変に力が入ってきたかと思うと、そこからさらに強調しようと、ますますハイテンションに上昇していき、聞くに堪えない。ああ、いやだ。テレビを消してしまうことも多い。
 そんな繰り返しに、がまんができず、NHKのホームページに「意見問い合わせ欄」があるのを見つけ、そこに投稿してみた。以下である。400字を超えると、受け付けないので、一部省略した。

【ここから投稿分】
「クローズアップ現代」を、ずっとがまんして視聴しています。
国谷キャスターの日本語は、毎回がまんの限度を超えます。どうして、こんな変な日本語を使う人を、NHKを代表する番組に使うのでしょうか。この人の日本語のイントネーション、アクセントは非常におかしく、神経を逆なでされることがしばしばです。
 たとえば昨日(10/21)、太陽電池を問題にしていました。その際の「でんち」のアクセントが、明らかにおかしいです。第1シラブルにアクセントがあるべきです。同じ番組のなかで、人により「んち」と「でん」が混じって聞こえるのには、いらいらします。
この人のイントネーションは、とても日本語と思えないほど、おかしいです。もっと平板であってほしいです。この人は、最初から強調で始まり、それがどんどんハイテンションに上がっていき、聞いている方で息苦しくなります。
 NHKには、ちゃんと日本語の話し方についての教育制度〔機関)があると聞きます。そこへこの人を一年間送って、徹底的に日本語を鍛え直したらどうでしょうか。
 これまで裏で、読みだけをやっていた男性アナウンサーにも問題を感じていましたが、やっと最近変わりましたね。ホッとしました。この人は「・・・ました」の、「ま」に変に力が入って、「まぁーした」と聞こえ、重ったるかったです。
 NHKは、もっときれいで、聞きやすい日本語を使うよう、力を入れてください。
【投稿文、ここまで】

 こんなことを書いても、しょうがないと思いながら、クレイムをつけてみた。最後のセンテンスは、「力を入れてください」ではなく、「力を抜いてください」とするべきだったか。書かなかったけれど、この人の番組開始時の出だしもおかしい。最初の一礼の間に「今晩は、クローズアップ現代です」と言ってしまうのだ。「今晩は」で一礼し、「クローズアップ現代です」は顔を正面に向けていってほしい。全体に早口なのは現代風なのだろうが、そのあまり、口の中でくぐもってしゃべってしまうのもよくない。

【08/10/23追記】
 読みだけを担当する男性アナウンサーが交代したらしいというのは、私の感違いであった。今晩登場、日替わりで出たり出なかったりしている。重ったるい読み上げぶりは相変わらずである。

2008年10月18日土曜日

今日は"Memorandum"の方に

 この「雑記帳」に書きはじめて、自分で迷っている。あることをブログ・エントリとして書こう。さてどちらに載せるか。自分で判然と区別がつかないのである。最初は、中途半端なもの〔読者には申し訳ない)をこちらに、少しまとまったものを"Memorandum"の方にというつもりだった。しかし、書き分けは難しい。しょせん私ごときが書くのは、中途半端である。そうはいっても、書きはじめれば、地が出て、理屈っぽくなり、長くなる。それをこっちにするか、あっちにするか。線を引きがたい。

 ともかく、今日は、あっちに書いた。米大統領選はオバマで決まり、という話題である(ここ)。これだって、最初はこちらに載せるつもりで書きはじめた。あちらにしたのは、しばらくご無沙汰だなあ、というほどの気持ちのブレの結果である。お許しくだされ。

 ついでに近況。前回のこちらのエントリで書いた、テーブルトップフォトに凝っている。これで、3日連続で、半日は撮影に取り組んでいる。撮影対象の収集のため、昨日は夕方、散歩に出て、落ち葉や栗とイガを拾ってきた。今日は連れ合いの買いものに同道して、野菜市場で被写体はないかとキョロキョロした。食物としてでなく、被写体として野菜やそのほかのグローサリーを見るのは、新鮮な経験である。その気になると、撮りたくなる対象はけっこうある。今日は姫リンゴ、イチジクなどをその目的で購入した。来週月曜日は東京へ。テーブルトップフォトの第2回、実習の日である。

2008年10月16日木曜日

テーブルトップフォト、もうひとつ



 先のエントリに続いて、もう一つ。「ホトトギスの花と蜂の巣」。ホトトギスはわが家の庭に咲く花。日本に古くからある秋の花で、紫色の斑点のある花弁が愛らしい。私はソバカスを連想する。ソバカス美人というか。蜂の巣もまた、わが家の庭のシランの枯れた葉に置き去りにされたのを、2,3年前に見つけて、コレクションにしたもの。取り合わせはいかがなものかと思うが、試作のひとつ。

テーブルトップフォトを試みる



 趣味の写真で、テーブルトップフォトなるものを習い始めていることを書いた(『テーブルトップフォトを習う』08/10/07)。次回実習があり、その次に各自作品を5つ提出し、講評を受けることになっている。私的スケジュールからして、次回の実習後に撮影開始では間に合わないので、昨日から手がけはじめた。

 最初に思い浮かんだテーマは、自然にあるものを、存在するままに、美しく、愛おしむ気持ちを込めて撮るということである。ひとつだけというより、組み合わせて撮る。配置の工夫が必要であるが、今回はそのことより、まずは自然光のもと、影を生じないよう、深い被写界深度(ピントの違いでポケないように)で撮ることを心がけてやってみた。やはり、カメラからの距離の遠近で、すべてのものにピントを合わせるのは難しかった。白バックで、プラスに露出補正して、少しハイキーで撮ることを心がけた。

 このブログではひとつのエントリにひとつしか画像を受け入れないようなので、次のエントリにもう一つ画像を置くことにする。このエントリの画像は「貝殻と小石」。いつ手元に来たのか覚えていないのだが、巻き貝の貝殻と、連れ合いがあちこちで拾い集め、部屋のあちこちに置いてある小石をアレンジしたもの。新彊ウイグル自治区の玉(ぎょく)の産地の川辺で拾ったものもある。画像をクリックしていただくと、拡大画面で表示される。

2008年10月15日水曜日

かかとの痛みで整形外科へ

 左足のかかとが痛い。いつからだったか、忘れてしまったが、だいぶ前だ。3、4週間前だったか。履き慣れない室内履きを半日履いて、かかとの肉球が痛んだ。そんなことは前にもあったので、放っておけば直ぐに治ると思った。ところがしっかり居着いてしまった。おかしいなと思いながら、毎日のウォーキングを続けたり、遠出していた。横浜での撮影会とか、上京しての用事とか、ドライブついでの観光とか。その間、ずっとかかとが痛んでいた。最初はかかとの肉球だったが、どうやらくるぶしの関節にひろがってきたような感じがする。大したことはないと自己診断しながらも、これはやっぱり医者に診てもらわなくてはいけないかな。そう思いはじめて、さらに1,2週間が過ぎた。

 連休を無為に過ごし、その直後の混雑を避け、今日、整形外科に行ってみた。連れ合いがこの3ヶ月ほどむち打ち症でお世話になっている医院だ。上京時の高速バスが追突事故を起こし、その時に首に衝撃を受け、後遺症の目まいや頸痛の治療に通った。治ったわけではないが、これ以上どうにもならないだろうと、通うのをやめた。入れ替わりに私が行くハメになった。レントゲン診断の結果、骨に異常はなく、足底筋膜炎〔腱膜炎とも)と診断された。踵からつま先部まで、足の底を繋いでいる筋肉の表面膜なのか、腱なのか、それが炎症を起こしているらしい。ジョギングやウォーキングのやり過ぎなどで発症することがあるらしい。こちらはやり過ぎというほどではないから、たぶん老化に伴って、筋力が減少したせいだろうか。レントゲン写真からすると、私の場合、土踏まずを作っている足の骨が上に反りすぎていて(扁平足の反対、ハイアーチというらしい)、無理を生じていると医者はいう。

 湿布の貼り薬を処方されたが、しばらく足を休ませるしかないらしい。朝のウォーキングが唯一の健康法だったのに、それを禁じられては、どうして摂取カロリーと運動量のバランスを取ったらいいのだろうか。プールで水中ウォーキングをするのがいいらしいが、今さら、スポーツクラブなどに入って、泳いだり、エクササイズをするのも面倒だ。しばらく蟄居するしかないだろう。

2008年10月14日火曜日

中央公論11月号特集「政治崩壊」はお勧め


 福田首相が突然辞め、盛り上がりのない総裁選で、麻生首相に替わった。支持率は低迷で、解散すらままならない。日本の政治は、何かぽかんと空虚な状態に入っているように感じる。日本はいったいどうなるのだろう。そんな政治状況を「中央公論11月号」の特集「政治崩壊」が的確に分析してくれているようだ。内容は、

1.「自己管理できな政党が日本をむしばんでいる」 佐々木毅〔元東大総長、政治学)
2.徹底討論「新自由主義か社会民主主義か」 竹中平蔵(小泉内閣で改革担当大臣、経済学)、山口二郎(北大教授、小泉改革批判、政治学)
3.座談会「劣化した政治家が失った『狂熱的なもの』」保阪正康(ノンフィクション作家、昭和史研究)、御厨貴(東大教授、TBS時事放談司会者)、井上寿一(学習院大教授、アジア外交史)
4.「麻生・小沢のバラマキ路線で大丈夫か」 与謝野馨(現・経済財政担当大臣)、聞き手:田原総一郎(テレ朝、サンデープロジェクト司会者)
5.「国家の再生を阻む中央の”統制”を解除せよ」 片山善博(前鳥取県知事)
6.「政権交代の可能性を読む」 伊藤惇夫(政治ジャーナリスト)
〔一部省略)

と、多彩である。

 総じて、どの論者も、今の自民党政治が耐用期限をとっくに過ぎ、劣化している、それが現在の状態を産みだしているとしている点で共通している。1.の佐々木論文は、読んで呆れる。政党に向かって、政治と政党のあり方のイロハを説いている。政党は一つの組織であり、組織であればそれなりの経営管理が必要だ、それが空洞化しているのが、自民党の現状だといっている。そんな私ら素人にとっても初歩的なことをこの代表的政治学者に言ってもらわなければならないのかと呆れた。政策論議より、政局だけに目を向けている日本の政治のお粗末さは、次の2.で竹中・山口も指摘している。自民党が「とにかく政権にいるために何でもあり」の政党なら、「民主党は政権を奪いたい人間の集まり」となっていると。

 面白いのは、政治についての主張が対極にあるように見える竹中と山口が討論の座につき、話すことが存外噛みあっていることだ。小泉政権が残した歪みを山口が問題にすれば、竹中は改革が不十分で徹底していないから現状があるとし、山口は改革が、無駄を放置し、削ってはいけないところばかり手を突っ込んでいると責めている。何が問題か現状認識では二人はけっこう一致している。竹中は彼が行った政策を「新自由主義」というレッテルでくくられることを拒否している。自由ではなく、ルールを強化してむしろたがをはめた、と主張する。最後には、意外にわかり合った風に見える。小泉内閣で、改革に本気だったのは、小泉・竹中以外に一握りの人だけだった、今はどんどん元に戻って行きつつあると、竹中が嘆いている。ではあの小泉政治は何だったのだろう。

 3人の玄人政治評論家による座談会(3)では、日本の政治が劣化してしまったと指摘する点では当たっているのだが、観点は古いなあ。昔の政治家は狂熱的なオーラがあり、それをもった政治家が見あたらなくなってしまった、そこに劣化の現れがあるという。安倍、福田、麻生は、いずれも政権を戦い取る意欲も、怨念も、凄みも、オーラもないままに、自民党内のご都合主義によって、次々にクビをすげ替えられただけ。それではますますダメだろうと、自民党政治をウォッチしてきた玄人たちはいいたいようだ。ダメにした原因のひとつは「お化けみたいな世論」だとする。小沢については不思議な政治家として、よく分からない、といっている。そのよく分からない小沢を、清く正しく美しい、学級会レベルの連中が支えているのが民主党らしい。

 4.で、与謝野は田原相手に、けっこう本音を言っている。福田が立ちゆかなくなったのは公明党のせいとか、総裁選で、麻生−小池だけの争いになったら、二人の議論のレベルが自民党のレベルと思われては困るから自分が立ってみたとか、麻生の景気刺激策は、ドリンク剤を飲んで一時的な疲れをとる程度とか、結局消費税アップしかこの国をまっとうにする方策はないと、いつもながらの主張。この人は財政に詳しいが、無駄を省くというところには一切目が行かず、民主党の政策にしても、麻生の景気対策にしても、何かをするには金が要りますよと、きわめてまっとうな主張。「上げ潮」についても、高い成長率は、それは望ましいが、成長率を上げるための答えがないと。

 片山はいつもの主張。霞ヶ関はポンコツ。地方がもっと自主性を与えられ、地方地方がわがこととして自分で自分のことを考えるようにならなければ、日本の将来はないと。

 まあ、こんなところで、ざっとした紹介は終わろう。この特集、時宜を得ていて、読み応えありと、お勧めするのが趣旨。

2008年10月12日日曜日

山下肇先生のこと


 10月9日の新聞の死去お知らせ欄が、駒場で過ごした若い頃の思い出をよびおこした。山下肇先生にドイツ語を習ったころのことである。出身校のことを書くのは控えたいのだが、この先生のいた教養学部のユニークだった雰囲気を思い出してみたい。先生自身がその当時のご自身と学部の学生たちとのことを書いている。『大学の青春・駒場』(1956、光文社カッパブックス、絶版)である。本の扉には「教師である著者と教え子の大学生たちが一つになって息づいているような生活記録」とある。私には、当時30代半ばだった先生の若々しい姿しか記憶にない。その後、教養学部長となり、退官し、去る10月6日、88歳で亡くなられた。先生の老いた姿は想像できない。若い頃のままだ。多くの著書、翻訳書がある(上記wikipediaリンク参照)。

 私が大学2年、1954年当時、学生運動は比較的穏やかだった。それでもあるとき何かが問題になった。寮を一つ改装して教官室棟に転用することだったか。その時、クラス担任兼ドイツ語購読担当だった先生の時間に、授業をつぶして、クラス討論をしたいと自治委員が要求した。クラス全員も賛成だった。先生もいいでしょうと応じただけでなく、議論に加わった。行き過ぎをたしなめながらも、私たちの生意気な意見を理解してくれた。その結果、このクラスでまとまった反対意見を、先生が次の教授会で発言しましょう、とまで約束することになった。次の授業の時、先生は、済まなそうな表情で、教授会は、私ごとき若輩が口を差し挟めるような雰囲気でなく、なにも発言できませんでした、と詫びた。背の高い先生が、しょんぼりと頭を下げる姿を見て、誰も何も言えなかった。それが、山下先生というと真っ先に思い出すシーンだ。ふだんは意気軒昂な先生であっても、若い助教授である。大先生が並ぶ教授会に学生の意見など持ち出すのは荷が重かったのだろう。たいていの先生は、授業をつぶして自治会の討論にするなどもってのほか、ここは学びの場ですなどと、やんわりとたしなめるものだ〔HP 本館に別の先生について、かつて書いた中にも、そのようなことが書いてある)。そんな中で、できるだけ学生のいうことを聞こうとする先生の存在はユニークだった。授業が終わると先生を囲んで話し込むこともあった。

 新制大学ができて数年というころだ。最初の2年間を教養課程で、語学を含めて一般教養科目を履修し、後半の2年を専門課程でそれぞれの専攻科目を修める、という骨格ができて、定着しはじめたころだろうか。この基本路線をもっとも忠実に形にしていたのが東大だった。教養学部を駒場に置き、そこで2年。後半は、本郷の各学部に移る。駒場の教養学部は、キャンパスもそこに漂う雰囲気も、旧制一高の名残をとどめていた。第2外国語履修を中心にクラスが編成されていた。当時ドイツ語を選択する人が圧倒的に多かった。クラスごとに担任教師がいて、ほとんど語学の先生が張り付いていた。

 入学して1年半経ったところで、後半に進学する学科が決まる。成績次第で希望通りにならない悲喜劇があった。教養学部での最後の半年は、そうして決まった学科別にクラスが編成替えになる。物理学科(地球物理学科と天文学科も含む)へ進むドイツ語選択クラスの担任が、この山下肇先生だった。学生と仲間のような付き合いをしてくれる、兄貴といっていいような先生として人気があった。ドイツ書講読のテキストは、物理学科進学者に配慮して、ハイゼンベルクの "Zur Geshichte der physikalischen Naturerklaerung" (自然の物理学的説明の歴史について)であった。その薄っぺらなテキストを今でも持っている。悪い紙質の各ページに、びっしりと書き込みがしてある。予習にけっこう骨が折れた記憶がある。

 激しかった学生運動が沈静化していた時期だった。すこし前までは非常に激しかった。昭和27(1952)年には「メーデー事件」(使用禁止となった皇居前広場に数千人が集まり、警官5千人と乱闘、二人の死者がでた)があり、破壊活動防止法が成立するなどした。学生たちは激しいデモをするばかりか、交番に向かって火炎瓶を投げたりしていた。私が入学のころ、共産党の路線変更で急に穏やかになった。息子が大学に入って火炎瓶を投げたりする仲間にならないかと心配していた両親にとっては、いい時期だったことだろう。

 山下先生は、旧制浦和高校の教授だったが、この学校が東大教養学部に併合されたことから、昭和24(1949)年、教養学部設立に参加した。大きな変革期だった。大学側にもさまざまな混乱があったらしいが、学生たちも騒然としていた。山下先生は、さまざまな局面で、親身になって学生の相談相手になり、個人的に面倒まで見ていた。そのことは最初に引用した「大学の青春・駒場」に生々しく記録されている。

 本のカバー裏扉には「著者のことば」としてこうある。



 昭和24年の発足いらい、私は新しい大学の青春の息吹を、学生たちとともに呼吸してきた。日本の未来をになう選ばれた青年たちが、時代の激浪に洗われながら、この駒場で、高い理想にめざめ、真理とモラルを求めている。若い人生を精いっぱいに生きている。その真摯な群像に接するとき、さながら日本の希望そのものを見る感じがする。いわば、駒場とは新しい大学、新しい日本をつくりだす一つの大きな源泉ともいえようか。その学園の内なる生命の鼓動に支えられてきた一人として、いま私はこの本を書かずにいられなかった。


 うーん、先生も若かったのだな、と思うし、エリート主義的匂いも、ちょっと。その後の著書で、「むかし若気の至りで『大学の青春・駒場』と題する小冊子を書いた赤恥の・・・」と書いている。しかし、そのような若気の至りがまかり通っていた時代が懐かしいし、その場に私もいたことを賜物と感じる。先生の冥福を祈る。

2008年10月11日土曜日

マタタビ酒とアケビ酒



    【画像説明。左が:アケビ酒、右:マタタビ酒】
 昨日エントリーに書いた旅の後始末。そこで、こう書いた。「帰途のルート沿いの道の駅とか地元物産店に寄り、連れ合いの買いもの、安値の野菜・果物と、珍しい物産(マタタビ、アケビの実など)を、小さな車に満載して、帰ってきた。」。野菜や果物の始末と収納は、昨日中に終えたが、今日、連れ合いは、果実酒作りから、ジャム作りまで、終日キッチンで立ち働いていた。この人はやり出すと止まらない。さらに戦線を拡大する傾向のある人だ。

 朝食が終えるか終えないうちに、アケビとマタタビの果実酒作りに取りかかった。私は口先だけ介入する。アケビは果実酒作りの本には記載されていないようだ。中身の食用部分だけを使うか、皮ごと使うか。ネットで検索してみるといろいろと試している人がいる。中身だけというやり方もあれば、皮も使う人もあるようだ。紫色を帯びた皮の色に魅力がある。中身と皮を分離し、皮は裂いてリカーに浸すことにした。560円で買った12個のアケビを使う。リカーには香りがいいブランデーを使う。もちろん高価な飲用のものでなく、果実酒用のものだ。連れ合いはいつでも用を足せるよう、何本かストックしている。それを使う。

 マタタビ酒は、レシピ−がある。問題は果実が野生のものゆえ、汚れていること、虫がついていること。表面の汚れは洗っただけではとれないほど。丁寧に襞の部分を剥いたり、穿ったり。表面に色の変わった孔があるものは、割ってみると、中に虫が巣くっている。それを取り去る。1kg、400円で買ったマタタビは、個数は百個どころではなかったろう。かなり手間がかかった。これにはホワイトリカーを使う。

 アケビ酒は、2ヶ月したら、身と皮を取り出す。それ以降は飲めるようだ。マタタビ酒は、身はそのままでいい。ただし、エキスのしみ出しと熟成に時間がかかるようだ。飲めるようになるまでに、半年か1年かかるらしい。それぞれに楽しみだ。私はマタタビ酒で試してみようと思っていることがある。この酒を手や腕に塗って、猫に近づいてみる。寄ってきて、身体を擦りつけてくるかどうか。

 連れ合いの果実酒作りは歴史が古い。大きな瓶に入ったままのものもあるが、大部分は私の飲んだウィスキーやジンの瓶を再利用したボトルに入れ、生産年などを書いたラベルが貼ってある。ほとんどは、梅酒かプラム酒だが、カリン酒、リンゴ酒、レモン酒、イチゴ酒、グレープフルーツ酒、ショウガ酒、サルナシ酒などもある。一番古いストックとしては、73年のプラム酒が確認されている。地下室の酒蔵には、720ml瓶がおよそ130本、漬け込みのままの、3リットルほどの大瓶が5本並んでいる。ここに新たに2本が加わった。死ぬまでに飲みきれないストックを抱えているのだが、連れ合いはシコシコと作り続けている。

 「戦線拡大」と書いたのは、連れ合いの作業は、この果実酒作りで終わらず、葡萄ジャム、リンゴの砂糖煮それにイチジクの砂糖煮と続いたからだ。まだ何かやっている。

2008年10月10日金曜日

思い立って旅へ

 われながら、衝動的だな、と思いながら、旅に出た。何であれ、その気になったら、直ぐにできるのが、遊民の特権である。東京での用事から帰ったのが、火曜日の昼過ぎ。にわかに思い立って、翌水曜日から、旅に出ようかと連れ合いに提案してみたら、いいよとの返事。早速宿の手配を開始。ねらった宿は満室で取れないなどの障害はあったが、何とか出かけるめどがその日のうちについた。水曜日朝には、まだ200kmほどしか走っていない新車「アイちゃん」を駆って北へ向かっていた。

 前日買った「まっぷるマガジン・福島」(昭文社)をチラッと眺めて、見当をつけたのが、初日、羽鳥湖の温泉付きペンション。二日目、南会津の湯野上温泉。最初の目的地「はとりこ」を、そこに着くまで「はじまこ」と思い込んでいたほど、にわか仕立ての旅だった。

 結果としては、悪くなかった。あてずっぽうのやり方もなんとかなるものだ。たままた選んだペンションの当夜の客は、われわれ二人だけ。ペンションのほうも、脱サラしてペンション経営十数年のご主人ひとりだけ。そのご主人と酒を飲んで、あれこれ話し込むしまつ。それがけっこう深刻だった。彼の抱えるもろもろの問題、たとえば、そのリゾート開発地へいわば入植した彼の土着の苦労話。それにとどまらず、おしなべてどの地方も抱える過疎対策などの問題などなど。それはまた、機会があったら書くことにしよう。

 翌日はその近辺に大規模に展開しているリゾート施設「レジーナの森」〔うまくいっているのか、どうかまでは見通せなかったが)を一回りしたあと、タイムスリップして、江戸時代の会津街道の宿場町「大内宿」へ。ここは、あらかじめ知らず、旅先で教えられて訪れてみた観光地。聞けば年間220万人もの人が押しかける有名な観光地だそうだ。茅葺きの家屋が並ぶ、奇跡的に残った江戸時代の面影を残す街並みだそうだが、まったくダメ。観光地として知られすぎて〔私は知らなかったが)、あまりに多く人が押しかけ、それに応じて、せっかくの古い街並みが、見せ物となってしまっている。ほとんどすべての家が、お土産屋兼蕎麦屋になっていて、わんさと押しかける観光客に愛嬌を振りまいている。高山や、妻籠のほうがまだましだ。

 ガイドブックで気にとめて出かけた南会津町〔旧田島町)にある「旧南会津郡役所」の洋風建築のほうが印象深かった。午後遅く訪れた私たちだけを相手に、係の女性は、丁寧にこの地の歴史を物語ってくれた。明治初期、朝敵会津を抑え込むために県令として赴任した薩摩出身の三島道庸に、過酷な扱いを強いられた会津の忍苦。遡って天領だった江戸時代の百姓一揆の哀話など。この地は、民主党で今や黄門さん的存在である渡部恒三の地元であった。ほんわかして、ユーモラスなこの人の語り口と出身地との結びつきを、その地に至って実感したのだった。

 今朝は、「塔のへつり」という奇景を、なるほどと見ているうちに、そこへやってきたアジア人らしい若者たちに、吊り橋を揺らすなと文句をつけたのをきっかけに、技術研修生として滞日中の彼らとしばし話したり、遠足にやってきた会津若松の小学生から「おじさん、宮崎駿にそっくり」と、はやしたてられたり。行く先々に、あれこれがあった。帰途のルート沿いの道の駅とか地元物産店に寄り、連れ合いの買いもの、安値の野菜・果物と、珍しい物産(マタタビ、アケビの実など)を、小さな車に満載して、帰ってきた。

 この時期に急遽、旅をする気になったのは、このときを外すと、私と連れ合いの二人のスケジュールからして、しばらく旅行に出るチャンスがないことと、働いている人々が秋を楽しむこれからの時期に、私ら遊民が邪魔をしては申し訳ないという二つの理由からだった。もう一つ、小振りとはいえ、新しく乗りはじめた車が、旅心を誘うのだ。

2008年10月7日火曜日

ノーベル物理学賞、日本人3人に

 今年度のノーベル物理学賞が発表され、日本の物理学者3人に与えられた。まずはめでたい。南部の受賞のうわさは、ずっと前にこの時期になるとでていたことがあったが、そのうちに立ち消えになっていた。そこにこの受賞である。何で早くくれなかったのかと文句をいいたいところだろう。小林−益川は、やはり十年ほどから数年前に騒がれていた。発表時期に記者が集まったりしたと聞いた。南部の仕事は50年前のもの、小林−益川のは、35年前のものだ。理論だが、その正当性は理論屋の間ではとっくに確立していたし、実験で最終確認がおこなわれたのはだいぶ遅れたが、かなり前だ。どう見ても時期遅れの受賞だ。物理はずっと先に進んでいるからと、受賞者たちはインタビューでは、いささか困惑気味のだった。まあ、ノーベル賞はそんなこともある。それでもめでたいし、日本の若い人たちにいい影響を与えることだろう。

 この時期になると、誰が受賞するか、話題になる。新聞でもあれこれ予想を立てていた。物理学賞は、どちらかというと時節柄、ナノテクノロジー関係のテーマを追っていた。基礎物理の分野、素粒子や宇宙物理という分野は、行き詰まり気味で、新しいブレークスルーがない。これについては、Memorandum のほうで話題にしたことがある(『迷い道にいるのか、物理学』〈08/1/22〉)。極端に言う人は、ここ2,3十年、画期的な発見がなされていないという。その事情から、35年とか、もっと前の業績に光が当てられたのだろう。けちをつけたくないが、袋小路に入ってしまったその分野の行き詰まりぶりを反映した受賞のような面がある。

テープルトップ・フォトを習う

 いちおう写真を趣味にしている。しかし何が自分の写真かとなると、まだまだ模索中だ。あれこれ撮っているが、少し自分の写真の幅を拡げて見たいと思うようになった。気があちこちに散るのが、私の悪い癖だとは分かっている。それでも興味のおもむくままにで、いいじゃないかと、自分で自分を甘やかせている。最近絵画の「静物画」(still life)に相当するようなものを撮ってみたいと考えている。絵を見ると「静物画」が一つのジャンルとしてあって、どの画家も描いている。写真では、広告写真はあるが、花写真をのぞけば、アマチュアの写真では、それほど見られない。絵画の静物画のような、アート性の高い写真を撮ってみたいと思うようになった。それには照明その他の写真技法を学ぶ必要があるな、と思っていた。

そんなところに、「ニコン塾」で「テーブルトップフォト」の講座が開かれることを知って、早速申し込んだ。昨日その一回目があり、あと二回目は実技、3回目は各人の作品批評ということになっている。

 昨日開かれた講座には十数人の受講生。男性はほとんどがシルバー世代。女性は若い世代が多い。講師は、これまで何度かこの講義シリーズをしてきて、いつもほとんどは女性なのに、今回は男性が多いですね、「こもの撮り」は女性の感性がものをいうことが多く、女性向きなのですと、男性受講生の出鼻をくじくようなことをいうことから講義が始まった。そこで事件があった。女性受講生の一人が、先生のいうひと言ひと言に文句をつけはじめた。声が小さい、不明瞭だ、もっとはっきり話せ、○○とは何か、私はさっぱり分からない、などなど。すぐにこの人は狂っている、これでは講義が成り立たない、と分かってきて、受講生全員が、口々に制止しようとしたが、どうにもならない。塾の責任者に来てもらって、退席してもらった。それまで10分か、15分。さんざん喚きちらしながら、会場を去った。同じく写真を志し、学びに来る仲間にこんな人がいるとはあきれた。たぶん、ほかの場でもトラブルメーカーになっているのだろう。

 で、講義はどうだったかというと、やはり餅は餅屋、この分野のコツをいろいろと教えてもらって、これからこの分野の写真を手がけていくのに、参考になった。特別の照明は要らない。自然光でいい。トレーシングペーパーとか、手作りのレフ板でいい。特別なレンズもツールも要らない。一通りの注意事項も教えてもらった。これで、自分の場合どうしようかとの見通しもついた。あとは私が目論んでいるような、絵画の「静物画」のようなアート的な写真を撮れるか、となると、これはこの講義の範囲外で、手探りでやっていくしかないだろう。たぶん画像処理とか、プリントの技法も必要になるだろう。ともかく、一つ楽しみが増えた。

2008年10月5日日曜日

ハーゲン弦楽四重奏団を聴く

 オーストリー・ザルツブルクからやってきた兄妹四重奏団、ハーゲン弦楽四重奏団のコンサートへ行ってきた。水戸の芸術館のコンサートホールで行われた。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を3曲。中でも第14番(作品131)が、素晴らしくよかった。音が澄んで美しく、最弱音が心に響いて聞こえる。そしてフォルテになると、女性が混じっている四重奏とは思えない盛り上がった音を響かせる。14番は、ベートーヴェンの曲の中でも愛好しているものの一つだが、これまで聴いた中で最高の感動を与えてくれた。ほかに彼の生涯最後の曲、第16番と、40歳のとき、失恋した直後に作曲したといわれる第11番。ドイツ系らしい端正な音だった。

 この四重奏団は、もともと兄妹4人で結成され、84年にザルツブルク音楽祭でデビュー、大成功を収め世に出た。一人がソロ演奏家となったので、第2ヴァイオリンに兄妹外の人が入っているが、もともと音楽一家らしい息の合い方で、他にないハーモニーを産みだしているのではないか。今回は何回目かの来日で、先月(9月)29日から、東京で3回、あと横浜、静岡、大阪と、連日の演奏会のあと、最後に水戸にやってきた。水戸には2度目である。

 会場には、水戸芸術館の館長を務める吉田秀和氏が、元気な姿を見せていた。95歳になるが、水戸芸術館での主なコンサートには、お嬢さんであろうか、付き添いの方とともにやってきて、中央後部のシートで聴いている。水戸にとってはもったいない人だ。しかしおかげで、水戸は地方でも有数の音楽のセンターとして質の高い音楽に居ながらにして接することができる。

2008年10月3日金曜日

ペイリン副大統領候補の英語

 かつてアメリカに住んだときに耳にして印象に残っている会話の断片がある。「アメリカでちゃんとした仕事をするためには、"good English"(まともな英語)を話せないといけない」。アメリカでエリートであるための最低限の資格を言っているように聞こえた。

 アメリカでは、誰もがまともな英語を話していると思うと大間違いである。アメリカ人は、早い、遅い、の差はあれ、誰しも外国からやってきた人、あるいはその子孫である。それぞれの母国語を引きずっている。広大な土地だから、それぞれの地方でさまざまに違う英語が話される。ニューヨークあたりで、なんとか英語が話せるようになったと思っても、地方へ行って地元の人と話すと、何をいっているのか、さっぱり聴き取れない。もちろん、会話が成り立たない。

 いったい何が "good English" なのか、よく分からないが、こんなのだろうか。東部の知識人にとっては、アイビーリーグ大学出の人が話している英語がそれである。あるいは、テレビのニュースキャスターや解説者が話している英語、知的な政治家やビジネスマンが話している英語のことである。

 ところが大衆レベルで話されている英語は、それとずいぶん違う。日本での、おすましの日本語と大衆レベルの日本語とか、方言とかよりもっと差が大きいようだ。

 ブッシュ大統領(JWB)の英語はずいぶんひどいと非難された。JWB自身が自分の英語の下手さ加減をジョークにしていた。原子力というときに、"nuclear" を「ニューキュリアー」と発音するのが、その典型例であった。JWBは、テキサス英語をイェール大学で洗練することがなかった。

 マケイン共和党大統領候補が唐突に選んだ副大統領候補、ペイリンの英語はとてもひどいらしい。私の米国でのメル友(私のブログやHPの読者は、誰のことかご存じだろう)は、2,3日前のメールで、「彼女の英語はテリブルで、言ってることも辻褄が合わない」と書いてきた。今日(08/10/3)の副大統領候補同士のディベート中継のさいに、副音声で英語を聞いてみた。私にはよく分からないが、メリハリの利いた分かりやすい英語でない。抑揚なく口ごもりがちに、べらべらしゃべる、私には苦手の英語であった。

 私がよく読みにいく、ニューメキシコ州在住のブロッガー、”dangerousmeta”の主は、彼女の英語がひどく気に入らないらしい。今日のディベートの感想の中でこう書いている(うまく訳せない部分があるが、ともかく)。



 すまないけど、私的な感想をいわせてもらう。「ニューキュリアー」と発音する政治家をまたと見たくない。それを聞くたびに身の毛がよだった。公的な場では英語を正確に発音してほしいと求めるのはエリート主義だろうか。ペイリン流のしゃべり方からすると「どん、ずばり」そうじゃないと思う。ところが困ったことにペイリン夫人は、それが勇気の印であるかのように「どん、ずばり」を何度も使うのである。私は大声で言いたいのだが、良い教育を受けているなら「コンチクショウ、俺達の国語を正しく」話してほしいもんだ。


 ここで、「どん、ずばり」と、とりあえず訳してみたのは、"shootin'" という語である。ペイリンは、何ごとにつけ、その言葉を挟むらしい。正しい意味あいをご存じの方は教えていただきたい。

2008年10月1日水曜日

サツマイモと芋焼酎

 連れ合いはサツマイモを好む。私は嫌いである。好き嫌いはほとんどないほうだが、サツマイモとカボチャは別である。戦後のひもじい時代に、家庭菜園でできた質の悪いサツマイモやカボチャを、いやというほど食したからである。折につけて書いたり、話したりしたことがあるので、またかと思う読者もいるかもしれないが、勘弁してほしい。一生分をその時期に食したので、もう食べたくない、食べる必要がない、と何度もいいたいのだ。

 サツマイモは今がシュンらしい。連れ合いは、まいど芋をふかして、それをうまそうに食べる。「たべない?」と、「いやだ」と私が応じるのを承知の上で問う。意地が悪い。このところ、この定型的問答がくり返される。

 私にも対抗策がある。芋焼酎だ。これならいい。サツマイモを原材料にしているとはいえ、焼酎となると別である。昔習った生半可な英語知識でいえば、"made of" は駄目だが、"made from" なら許せるということだ。アルコール飲料はそれぞれに好きであるが、なかでも芋焼酎は好みである。さっぱりして、サツマイモの匂いがして、少々甘味のあるものを好む。あれこれ試してみたが、高級な(高価な)ものは、サツマイモの匂いがあまりしないので、好みではない。安物がいい。好んで飲んでいたのは、マイナーな銘柄である。「やまや」という量販店が、自店ブランドとして売っていた「浦」というもの。過去形で書いたのは、最近入手できなくなったからだ。このブランドになじんだ最初のころは、たしか福島県郡山で醸造していた。芋焼酎とは関係のない生産地だが、どこかで収穫した焼酎好適種のサツマイモ「薩摩黄金」を原料にして、依頼醸造しているということだった。それがいつの間にか、気がついたときには、中国産となっていた。それでも気にしなかった。味と匂いに変わりがなかったからである。

 それを中国産と知った連れ合いが、それを飲むのはよくない、というようになった。おかしいじゃない。サツマイモを食えというのに、サツマイモを原料とし、サツマイモらしい匂いがする「浦」はやめておけという。中国産食品にあれこれの問題が生じるよりずっと前から、連れ合いは中国産をうさんくさいと考えているようだった。私は大量に食べたり飲んだりするわけではない。かまわないという考えだった。

 しかし毒入りギョウザ事件が発生し、中国産野菜を中国人でも洗剤で洗ってから食べるという報道を聞き、つい最近ではメラミン入りミルク製品などとなってくると、中国産芋焼酎も何かがはいっているかな、と思うようになった。私がうまいと思っていたのは、何かの巧妙な添加物のせいかもしれない。

 じつは「やまや」は自社ブランド「浦」を扱わなくなったようだ。最初は、大々的に売っていた「浦」は、片隅にひっそりと置かれるようになった。それでも好きなので、苦労しても捜し出して求めた。しかし、このところ店頭から消えた。

 こうして、私の芋焼酎好みは行き場所を失っている。どうやって連れ合いのサツマイモ攻勢に対応したらいいのだ。「浦」以外の芋焼酎にこれという代替品を見いだせないでいる。いっそ、ソバに行くか、米に行くか。そういいながら、サツマイモの匂いを慕っているのである。