高校同期会の会合に出た。その席でM君と隣り合った。この人と会話を交わすのははじめてだった。いや、そもそも同期にこんな人がいることをはじめて認識したのだった。大柄で、外国人ぽい風貌が目立っていた。初対面の挨拶をし,名乗りあった。名前に記憶がなかった。おそらく高校時代に同じクラスにいるとか、何かの活動で一緒になることがなかったのだろう。当時大分市には公立高校は一つしかなかった。新制高校がその年にはじめてできた。GHQの指示で学制が変わり6・3・3制が発足することになった。大慌てで、それまでの大分中学、大分第一高女、大分第二高女が合併して、一つの新制高校が発足したのだった。そのためであろう、一学年に十数組、8百人ほどの大勢の生徒がいたのだ。互いに知り合うことなく,3年間を過ごしたとしても不思議ではない。
ところがそうではなかったのだった。彼とはそれよりずっと前、小学校4年生の一時期、それも米軍の焼夷弾攻撃で大分市が焼け野原になり、ちりちりバラバラになる直前の時期、級友として親しく付き合った仲だったのだ。
会合の席には、私と小・中学校が一緒だった同期生が何人かいた。彼らと何かの話題で小学校(当時は国民学校と呼ばれていた)の名前が出た。旧城址(府内城)に近い、市の中心部にある小学校だった。隣席にいたM君が「私もその小学校に4年生の一年だけいました」と言い出した。「え?そうなの、僕も4年生の1学期半ばに、その小学校に転入したんですよ」と私。「その頃、私の姓はIと言いました」と彼。私の姓と一文字違い、「和泉」を「いずみ」と読むのだった。その名を聞いてはじめて、遙か遠い昔の思い出が甦った。「えーっ。和泉君だったのか。だったら思いだした。僕は、君の家に遊びに行ったことがあるよ。君、すごい絵を描いていたよね」と私。
何がきっかけだったか、彼が描いたという絵を学校で見せてくれた。軍艦の絵だった。戦艦が波を切って進んでいく英姿がパステルで描かれていた。小学校4年生が描いた絵とは思えないほど上手だった。「家に来てごらん。もっとたくさん見せてあげる」。そう誘われて彼の家に行ったことがあった。その家のある位置すら今思い出すことができる。大分を代表する新聞社の裏手にあたり、城跡を囲むお堀から南に延びる主要道路沿いにあった。広い前庭があり、門から玄関まで距離がかなりあった。街中にこんな構えの邸宅なのだから、お屋敷と言ってもいい家だった。今回聞いた話では、それは借家で短期間住んだだけだったそうだ。当時はその家構えから、私は彼を大邸宅に住むお坊ちゃまだと思い込んだ。家に上がると、自分の部屋に案内された。そこでたくさんの彼の作品を見せてもらった。軍艦の絵だけでなく、軍用飛行機(零戦とか紫電改とか)の絵も,戦車の絵もあった。当時の少年雑誌(少年倶楽部など)は,その手の勇ましい挿画がたくさん載っていて、彼はそれを真似して描いたのだろう。それにしてもバステルの使い方、精緻な描き方が見事だった。当時のことをいっぺんに思いだし、彼にそれを話すと,彼も思い出してくれた。私の家は小学校正門の真ん前だったこと、それが教会附属の幼稚園であり、かつ、その2階が一時的に教会の牧師館になっていたのだった。彼も私の住まいに来て、庭で遊んだ覚えがあるたことなども思いだしてくれた。
彼はたった1年しか、その家に住まなかった。その後、父親の出身地であるT集落(行政区画上は大分市だが,ずっと郊外の農村)に疎開したそうだ。だから私と同級生で過ごしたのは1年足らずだったことになる。
昭和19年、米軍機による都市爆撃が始まっていた。大分市内もやがて空襲でやられるに違いない。その前に空襲の恐れの少ない農村部へ移住する、いわゆる疎開が始まっていた。大分市には軍用飛行機を製造組み立てする航空廠があり、飛行場もあった。そこはすでに何度か爆撃を受けていた。
私たちが5年生になった昭和20年には,東京から始まり,大阪などの大都市へ,そして中小の都市へと、米軍機の焼夷弾による都市の焼き討ち攻撃が広がりつつあった。
大分市は、終戦の1ヶ月前、20年7月16日深夜、B29編隊の焼夷弾攻撃を受け、街の中心部はほぼ完全に焼き払われた。目の前の小学校校舎への焼夷弾直撃を,私は目撃した。宿直の先生が消し止めて,屋根に大きな穴が空いただけだった。私の住んでいた幼稚園舎は、B29が編隊を組んで焼夷弾を落として通る筋が一本はずれたために直撃を免れた。しかし市の大部分は延焼によって焼けたのだった。私が住んだ幼稚園舎にも延焼が迫ったが、3軒先で、住民と消防によって消し止められた。
空襲の翌日登校したのは、全校でほんの十数人だった。当時4年年生以下は強制集団疎開で郡部の村に移っていた。6年生は勤労奉仕で軍需工場に行っていた。だから登校してくるのは5年生だけだった、それが登校生が少なかった理由ひとつだったが、多くの生徒は焼け出されたり,防空壕にいて直撃が当たり、その夜亡くなった子もいた。そんなことになるのを避けて、I君の父は先見の明で,郊外の実家に疎開したのだった。それきりI君とあうことはなかった。
それ以前も以後も、彼の家族は転々と居所を変えたらしい。父親が満州で働き始めたために,一家で満州に移った時期もあった。戦況が思わしくないと、父を残し帰国したのは幸いだった。父親は終戦時にソ連軍の捕虜となったが、シベリアへは連れて行かれなかったらしい。何かの用務で現地に留め置かれて終戦2年後に帰ってきた。俘虜の間何があったのか知らないが、父親はすっかり人格が変わっていた、と彼は話した。それが原因で両親は離婚し,母親方の姓に戻ったことで、Mに姓が変わった。中学は別だったが、同じ高校に進んだ。だが、彼をかつて友人だったI君だと認識する機会がなかった。
詳しくは話してくれなかったが、彼はつらい青春時代を過ごしたらしい。「この同期会に出ることで、その時期のトラウマを思いだしたくなかった。それで遠ざかったいたのです。最近ようやく気持の整理が付いて,ときどき出てくるようになりました」と。
「絵の道に進んだのかい」と,小学校時代に見せてもらったすばらしいパステル画を話題にしながら彼に尋ねた。「いえ、絵を描いたのはあの頃だけでした。その後文学を志し、日大芸術学部の文藝学科に進みました。しかし、その道で身を立てるのは難しいと判断して,しがないサラリーマンとして一生を終えました」。家庭の事情もあり、苦労したのだろう。受験時代も働く必要があったので、3年も浪人したという。大学に入ってからも、バイトと勉学との両立が難しく,思うような道に進めなかった、と、一生を顧みていた。私に向かって、どんな道を歩んだか尋ねもしなかったし、私もそれを話す気はなかった。
数えてみると70年余、交わることのなかった彼と私の軌跡が偶然にも交叉し、再開することができた。私にも古い思い出が甦る機会となった。もし会合で彼が隣席に来てくれなかったら、いつも控えめにしている彼のことだから、こんな希有な機会はまたなかっただろう。
戦争の時代を生き、様々な運命にもてあそばれてきたわれわれ世代の、旧い,辛かった時期をそれぞれがどう生き抜いてきたか、それを振りかえることもできた一夜だった。
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