2015年8月27日木曜日

ハイゼンベルク・原爆・演劇「コペンハーゲン」

 山口栄一京大教授による「科学者の魂を探して」というシリーズ(日経テクノロジーOnline) を、Facebook上で継続して紹介している。これは大きな足跡を残した科学者のお墓を詣でることを通して、その科学者の生涯、特に功績や人柄を偲ぶことをテーマとしている。このところ20世紀初頭に起きた物理学革命に係わった人々を次々と取り上げている。前回のシュレディンガーに続いて、今回はハイゼンベルクである。

 ともに量子力学の創成を担った2人だ。ハイゼンベルクが先行し、シュレディンガーがあとを追った。ハイゼンベルクが原子などのミクロ世界にそれまでの物理学は当てはまらず、新しい概念と方程式が必要だとその道を切り開き、シュレディンガーがその概念を実用的な方程式に具体化した。今回の記事では、そのことだけでなく、ナチス・ドイツでの原爆開発の指導者であった面にもスポットを当てている。併せてウラン核分裂の発見者であったリーゼ・マイトナーにも言及している。
 米国で科学者たちが総力を挙げて原爆を開発したのは、当時ドイツでハイゼンベルクが核分裂エネルギーによる新型爆弾開発に乗り出しているとの噂が引き金になった。彼の能力とドイツの産業力とをもってすれば、必ずや早期に原爆開発に成功するに違いないとの恐怖心が、政治家、軍、科学者たちを駆り立てて、あのマンハッタン計画を創設し、しゃにむに原爆の実現へと総力を挙げさせたのだった。ところがハイゼンベルクを中心とするドイツの科学者たちは、核分裂爆弾なんてものはできるはずがないと早期に諦めて、大規模な開発計画を発動しなかった。ドイツにおけるそんな経緯が分かったのは戦後になってからだった。ハイゼンベルクが消極的だったのは、嫌々ながらナチスに協力させられた事情もあるし、彼の倫理観がそんな大量破壊兵器開発に携わることを許さなかったともいわれている。
 それにつけても思いだしたことがある。「コペンハーゲン」という演劇である。英国の劇作家マイケル・フレインが1998年に創作し、イギリス、次いでアメリカで大ヒットした演劇である。日本でも2001年に国立新劇場の小劇場で上演された。それを私は見たことがあった。ハイゼンベルクが、ドイツ占領下にあったコペンハーゲンで1941年、ニールス・ボーアの自宅を訪ねた。その一夜の会談を再現した劇である。ニールス・ボーアは、量子力学の創成時代に、ハイゼンベルクを指導する立場にあった先生だ。ボーアは、1939年核分裂の発見直後、たまたま米国訪問の機会があり、米国にいたフェルミ、アインシュタインら亡命科学者たち、米国の科学者たちに、この発見の衝撃を伝えた。それがアインシュタインのルーズベルト大統領への手紙を経て、マンハッタン計画始動の発端となったのだった。その後も米国を訪れ、原爆開発の状況を知る立場にあった。
  上記の演劇で、ハイゼンベルクがボーアを訪ねた目的は、米国において原爆の開発が進められているかどうか、着手しているならばその進行状況などを探るためであった。登場人物は3人。上記2人とボーア夫人。量子力学の創成期のことも話し合われた。その頃2人の間に競合関係もあった。ハイゼンベルクの着想した不確定性原理の発表に、ボーアは待ったをかけ、それを拡張した「相補性原理」を提案した。師弟関係を超えて競い合ったのだった。この会談ではその時代を想い起こし、激しく意見が対立する場面もあった。それをボーア夫人がやんわりとたしなめたりして、3人の会話が劇的に進行するのだった。
 よくぞこのような知的内容をこなしながら、緊迫したドラマを仕立てたものだと観ていて感心した。連合国側(米国が始めたものに英国の科学者たちも加わった)での原爆開発の状況をボーアは知っていながら、のらりくらりとはぐらかし、結局ハイゼンベルクは何もつかめずに退去したのだった。もしここでボーアが実情を知らせていたら、別の展開があったかも知れない。このハイゼンベルク・ボーア会談は実際にあったらしいが、その内容はその後も両者は明かしておらず、演劇は全くフィクションである。
 日本上演では、ボーア役を江守徹がやり、ハイゼンベルクとボーア夫人を今井明彦、新井純が演じた。2007年にも同じ劇場で上演されている。ボーア役は村井国夫に代わっていた。
 この演劇を見ての感想を、ホームページに書いていた。すっかり忘れていた。「演劇 コペンハーゲン」でグーグル検索したら、誰かが劇評を書いていた。それを見たら、何のことはない、自分だった。以下のリンクでごらんになってください。これを書いた頃(退職のあと)はあれこれの演劇やミュージカル、コンサートなどを鑑賞に行き、その記録をホームページに書いていたのだった。


 演劇の作家マイケル・フレインのシナリオは、詳細な作者後書きとともに出版されている。興味があればアマゾンで以下を検索してください。

マイケル・フレイン「 コペンハーゲン」 (ハヤカワ演劇文庫27)

2015年8月15日土曜日

戦後70年安倍談話を読んで

 読んでみて,なかなか良くできている、というのが率直な感想だ。新聞その他には、「引用・間接表現(お詫び、侵略、植民地支配などのキーワードは自らの言葉でない)」「主語がない」、「村山談話がきちんと継承されていない」、「バランス重視(安倍首相らしさがない)」、「妥協の産物(公明党への配慮)」などの批評の言葉が並んでいる。そのとおりだと思いながらも、これで良いと思えた。
 談話の草案は有識者会議がかなり突っ込んだ議論をして作り上げた。草案について党内の様々な人の意見を聞いた。公明党とトップ会談をした折、安倍首相は避けたかった「お詫び」の文言を入れるよう注文が付いたらしい。そんなことがあった上で出来上がったものだ。どの方面からも激しく批判されないですむものになったのは当然だし,それで良かったと思う。
 安倍色を出して村山談話を書き換えようというのが、もともと首相が考えていたことだったと聞く。それにしては「らしさ」がほとんど見られない、バランスの良いものが仕上がったと言える(後ほど少し問題点を挙げるが)。最近の安保法制の国会審議でのつまづき、それを反映しての内閣支持率の低下(逆転)なども影響しているのだろう。
 私は,これを安倍首相個人の意見というより、日本人の大部分が受け容れられる最大公約数の考えを表明した文書として読んだ。談話の後半,未来志向の部分で、「私たち」が主語になっている。それは、内閣でもないし,政治家でもない、私たち日本人のことだと読める。「私たちは、・・・を、この胸に刻み続けます」という言葉が5回繰り返されている。日本人としての覚悟であり、国際約束だと読んだ。
 それでも、少し問題を感じる部分はあった。
 まず、歴史認識。100年以上前に遡り、西欧諸国の植民地化政策がアジアに及んできたことから説きはじめる。日本が戦争への道を辿ることになった原因はそもそもここにありと言いたいようだ。日露戦争での勝利は植民地支配に反対するアジア・アフリカの人々を勇気づけたという。その流れで,日本が太平洋戦争に至る経緯は、反省の気持ち半分、あとの半分は必然であったかのように日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを力の行使によって解しよみました国内の政治システムはその止めたりえなかった」と。戦争への道は,軍部の暴走を、政治が(ということはマスコミ、ひいては日本国民が)許してしまったことにあるのではないか。
 次に、「お詫び」について。「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました・・・」と、これまでの内閣の反省の言葉を要約したあと、「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」としている。これはたしかに「間接表現」だ。安倍首相としては「お詫び」という言葉を入れるとしても,せいぜいこういう文脈でしかできなかったのだろう。
 問題なのは,「お詫び」を首相談話に書くとしても、これっきりにしてほしい、今後繰り返して「お詫び」という文言を談話に書きたくないと,安倍首相の本音をちらっと言っているところだ。

日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」

と書いている宿命を背負わせてはなりません」のところは日本語には主語がない英文では “We must not let our children ・・・” とあるこの”We” は誰なのだろうかここは安倍首相の願望なのだと考えられるお詫びは今回限りにしてほしいと言っているようだでもそれだと先に引用した「こうした歴代内閣の立場は今後も揺るぎないものであります」とも矛盾するしすぐ上で引用したパラグラフの後半しかしそれでもなお・・・」の中身とも相反しているように思う安倍首相は謝罪に言及するのは今回を最後にして今後は「過去の歴史に真正面から向き合う」程度にしてほしいといいたいのだろう
 これでは文書全体に誠意が感じられなくなってしまう。その程度の「お詫び」文言で対中、対韓関係が今後軌道に乗るのなら,それで談話の役割は果たせるのだろうが、対韓関係では「慰安婦問題」が重くのしかかってくる。この問題は、日韓平和条約で総て片が付いているはずという、政府が繰り返している理屈では解決不能と考える。この問題については、政府がはっきりとお詫びし、何らかの具体的補償をして解決すべきだと,私は考える。軍が強制的に関わった証拠がないというのは,実質を見ていないと私は考えるから。

 首相談話後の日韓関係の展開に注目していきたい。

2015年8月6日木曜日

70年ぶりに会った友

 高校同期会の会合に出た。その席でM君と隣り合った。この人と会話を交わすのははじめてだった。いや、そもそも同期にこんな人がいることをはじめて認識したのだった。大柄で、外国人ぽい風貌が目立っていた。初対面の挨拶をし,名乗りあった。名前に記憶がなかった。おそらく高校時代に同じクラスにいるとか、何かの活動で一緒になることがなかったのだろう。当時大分市には公立高校は一つしかなかった。新制高校がその年にはじめてできた。GHQの指示で学制が変わり6・3・3制が発足することになった。大慌てで、それまでの大分中学、大分第一高女、大分第二高女が合併して、一つの新制高校が発足したのだった。そのためであろう、一学年に十数組、8百人ほどの大勢の生徒がいたのだ。互いに知り合うことなく,3年間を過ごしたとしても不思議ではない。
 ところがそうではなかったのだった。彼とはそれよりずっと前、小学校4年生の一時期、それも米軍の焼夷弾攻撃で大分市が焼け野原になり、ちりちりバラバラになる直前の時期、級友として親しく付き合った仲だったのだ。

 会合の席には、私と小・中学校が一緒だった同期生が何人かいた。彼らと何かの話題で小学校(当時は国民学校と呼ばれていた)の名前が出た。旧城址(府内城)に近い、市の中心部にある小学校だった。隣席にいたM君が「私もその小学校に4年生の一年だけいました」と言い出した。「え?そうなの、僕も4年生の1学期半ばに、その小学校に転入したんですよ」と私。「その頃、私の姓はIと言いました」と彼。私の姓と一文字違い、「和泉」を「いずみ」と読むのだった。その名を聞いてはじめて、遙か遠い昔の思い出が甦った。「えーっ。和泉君だったのか。だったら思いだした。僕は、君の家に遊びに行ったことがあるよ。君、すごい絵を描いていたよね」と私。

 何がきっかけだったか、彼が描いたという絵を学校で見せてくれた。軍艦の絵だった。戦艦が波を切って進んでいく英姿がパステルで描かれていた。小学校4年生が描いた絵とは思えないほど上手だった。「家に来てごらん。もっとたくさん見せてあげる」。そう誘われて彼の家に行ったことがあった。その家のある位置すら今思い出すことができる。大分を代表する新聞社の裏手にあたり、城跡を囲むお堀から南に延びる主要道路沿いにあった。広い前庭があり、門から玄関まで距離がかなりあった。街中にこんな構えの邸宅なのだから、お屋敷と言ってもいい家だった。今回聞いた話では、それは借家で短期間住んだだけだったそうだ。当時はその家構えから、私は彼を大邸宅に住むお坊ちゃまだと思い込んだ。家に上がると、自分の部屋に案内された。そこでたくさんの彼の作品を見せてもらった。軍艦の絵だけでなく、軍用飛行機(零戦とか紫電改とか)の絵も,戦車の絵もあった。当時の少年雑誌(少年倶楽部など)は,その手の勇ましい挿画がたくさん載っていて、彼はそれを真似して描いたのだろう。それにしてもバステルの使い方、精緻な描き方が見事だった。当時のことをいっぺんに思いだし、彼にそれを話すと,彼も思い出してくれた。私の家は小学校正門の真ん前だったこと、それが教会附属の幼稚園であり、かつ、その2階が一時的に教会の牧師館になっていたのだった。彼も私の住まいに来て、庭で遊んだ覚えがあるたことなども思いだしてくれた。

 彼はたった1年しか、その家に住まなかった。その後、父親の出身地であるT集落(行政区画上は大分市だが,ずっと郊外の農村)に疎開したそうだ。だから私と同級生で過ごしたのは1年足らずだったことになる。 昭和19年、米軍機による都市爆撃が始まっていた。大分市内もやがて空襲でやられるに違いない。その前に空襲の恐れの少ない農村部へ移住する、いわゆる疎開が始まっていた。大分市には軍用飛行機を製造組み立てする航空廠があり、飛行場もあった。そこはすでに何度か爆撃を受けていた。

 私たちが5年生になった昭和20年には,東京から始まり,大阪などの大都市へ,そして中小の都市へと、米軍機の焼夷弾による都市の焼き討ち攻撃が広がりつつあった。

 大分市は、終戦の1ヶ月前、20716日深夜、B29編隊の焼夷弾攻撃を受け、街の中心部はほぼ完全に焼き払われた。目の前の小学校校舎への焼夷弾直撃を,私は目撃した。宿直の先生が消し止めて,屋根に大きな穴が空いただけだった。私の住んでいた幼稚園舎は、B29が編隊を組んで焼夷弾を落として通る筋が一本はずれたために直撃を免れた。しかし市の大部分は延焼によって焼けたのだった。私が住んだ幼稚園舎にも延焼が迫ったが、3軒先で、住民と消防によって消し止められた。

 空襲の翌日登校したのは、全校でほんの十数人だった。当時4年年生以下は強制集団疎開で郡部の村に移っていた。6年生は勤労奉仕で軍需工場に行っていた。だから登校してくるのは5年生だけだった、それが登校生が少なかった理由ひとつだったが、多くの生徒は焼け出されたり,防空壕にいて直撃が当たり、その夜亡くなった子もいた。そんなことになるのを避けて、I君の父は先見の明で,郊外の実家に疎開したのだった。それきりI君とあうことはなかった。

 それ以前も以後も、彼の家族は転々と居所を変えたらしい。父親が満州で働き始めたために,一家で満州に移った時期もあった。戦況が思わしくないと、父を残し帰国したのは幸いだった。父親は終戦時にソ連軍の捕虜となったが、シベリアへは連れて行かれなかったらしい。何かの用務で現地に留め置かれて終戦2年後に帰ってきた。俘虜の間何があったのか知らないが、父親はすっかり人格が変わっていた、と彼は話した。それが原因で両親は離婚し,母親方の姓に戻ったことで、Mに姓が変わった。中学は別だったが、同じ高校に進んだ。だが、彼をかつて友人だったI君だと認識する機会がなかった。

 詳しくは話してくれなかったが、彼はつらい青春時代を過ごしたらしい。「この同期会に出ることで、その時期のトラウマを思いだしたくなかった。それで遠ざかったいたのです。最近ようやく気持の整理が付いて,ときどき出てくるようになりました」と。

 「絵の道に進んだのかい」と,小学校時代に見せてもらったすばらしいパステル画を話題にしながら彼に尋ねた。「いえ、絵を描いたのはあの頃だけでした。その後文学を志し、日大芸術学部の文藝学科に進みました。しかし、その道で身を立てるのは難しいと判断して,しがないサラリーマンとして一生を終えました」。家庭の事情もあり、苦労したのだろう。受験時代も働く必要があったので、3年も浪人したという。大学に入ってからも、バイトと勉学との両立が難しく,思うような道に進めなかった、と、一生を顧みていた。私に向かって、どんな道を歩んだか尋ねもしなかったし、私もそれを話す気はなかった。

 数えてみると70年余、交わることのなかった彼と私の軌跡が偶然にも交叉し、再開することができた。私にも古い思い出が甦る機会となった。もし会合で彼が隣席に来てくれなかったら、いつも控えめにしている彼のことだから、こんな希有な機会はまたなかっただろう。


 戦争の時代を生き、様々な運命にもてあそばれてきたわれわれ世代の、旧い,辛かった時期をそれぞれがどう生き抜いてきたか、それを振りかえることもできた一夜だった。

2015年8月5日水曜日

軽水炉使用済み燃料からプルトニウム原爆ができるか 2.  ー 米 政 府 の 公 式 発 表 ー

 原子炉級プルトニウムを使って米国が実際の核実験を行ったことは、さまざまな文献で言及されており、その信憑性が高いと、前回書いたが、その公式発表ペーパーを入手した。

Additional Information Concerning Underground Nuclear Weapon Test of Reactor-Grade Plutonium
U.S. Department of Energy, Office of the Press Secretary, Washington, DC 20585

で、ネット上に公開されている。以下である。 公開の日付は文書にはないが、 引用文献をみると、June 27, 1994であるようだ。

以下に日本訳を示す。

『原子炉級プルトニウムの地下核兵器実験についての追加情報』
アメリカエネルギー省・報道官室(June 27, 1994)

 エネルギー省は、原子級プルトニウムを核爆発物に用いて、1962年にネヴァダ試験場で行われた地下核実験について、追加的情報を公開する。

【主要点】
・兵器級プルトニウムの代わりに、原子炉級プルトニウムを核爆発物として用いた核実験は、1962年に成功裡に行われた。
・爆発出力は20キロトンを下回った。

【背景説明】
・この試験は、原子炉級プルトニウムを核爆発性物質として用いる可能性についての核設計情報を取得するため行われた。
・この試験により、原子炉級プルトニウムが核爆発物として使用できることが確認された。この事実は、1977年7月に機密解除(公開)された。
・この追加情報を公開するのは、商用発電炉の使用済み核燃料を再処理して分離される原子炉級プルトニウムに関連する核拡散問題に公衆の注意を喚起することが重要であると考えられるからである。
・合衆国は広汎な核実験データを保持しており、核兵器開発の今後の可能性に十分な見通しを持っている。これらの情報と今回公表する低出力試験結果とを結びつけて予測すると、原子炉級プルトニウムで核兵器が製造できることは明らかである。
・1970年以前には、プルトニウムの等級を定義するのに二つの術語しかなかった。兵器級(Pu240の含有率7%以下)と原子炉級(Pu240の含有率7%以上)であった。1970年代の初頭、核燃料級(約7%から19%のPu240)という用語が用いられるようになり、原子炉級は19%超のPu240を含有するものに用いるよう変えられた。

【公表による社会的便益】
・エネルギー省長官の情報公開方針の一部として、エネルギー省は原子炉級プルトニウムを用いて1962年に行われた地下核実験に追加情報を公開した。これにより、アメリカの公衆は、使用済み核燃料再処理により分離可能な原子炉級プルトニウムの不拡散についての議論にとって重要な情報を持つことになる。また国際的な保障措置の重要性に気づくことだろう。この情報を開示することは、他国が同様な試験情報を持つなら、それを公開するよう促すことだろう。
・本情報は、国際社会において分離された原子炉級プルトニウムの不拡散管理体制をどうするかを決めるのに、有用であろう。また国際的な保障措置について要請される事項を確定し、補強するのに有用であろう。
・この情報は原子炉級プルトニウムが核兵器に用いられる潜在的可能性について他の場でなされている間違った主張を正すことになろう。

【主たる利害関係者】
・公衆。核不拡散問題を盛んに議論している公益グループにとって本情報は有用であろう。
・公益機関。利害関係者としては、環境、安全、保健グループ、歴史家、市民活動家、研究者、科学者、産業界のひとびと、及び州政府連邦政府の人々が含まれる。核実験関連の活動を監視することに興味を持つ人々には、原子炉級プルトニウムで行われた核実験に関する追加情報をえることになろう。この情報に興味を示している公共利益機関としては以下のものがある(省略、本文参照)。
・環境問題活動家。プルトニウム関連の活動について環境監視を行っている人々にとっては、原子炉級プルトニウムの利用について付加的な情報を得ることになる。それらの公益機関として以下のものがある(省略)。

【質疑応答】
Q. 核実験の正確な核爆発出力をなぜ公開しないのか。
A. どれだけの爆発力があったかを公表することは、核拡散を目論むものに有益な情報を与えることになるということで、公表しないことになった。

Q. 核実験に使われた原子炉級プルトニウムの量は?
A. この場合、特定の情報は核拡散を目論むものの利益になるので、公表できない。

Q. 米国の核兵器に使われているプルトニウムの等級は?
A. 米国は兵器級プルトニウムを使っている。7%以下のプルトニウム240を含有すると定義されているものだ。

Q.核兵器に使う場合、兵器級プルトニウムが原子炉級プルトニウムより優れているのはなぜか。
A. 原子炉級プルトニウムは、かなり放射能が強く、兵器に使う場合ややこしくなる。

Q. この核実験が公開され通り成功なら、米国はなぜ原子炉級プルトニウムを核兵器に使わないのか。
A. 原子炉級プルトニウムは、かなり放射能が強いので、兵器の設計、製造、備蓄が複雑になる。原子炉級プルトニウムを使うと、兵器の組み立て工員の放射線被曝を軽減するため、遠隔操作装置を使うことになり、大きな出費が必要となる。兵器に原子炉級プルトニウムを使うと、軍の保守要員の放射線被曝も心配しなければならなくなる。いずれにせよ、法律(Public Law 94-415)により、ライセンスを受けた設備、すなわち商用炉、で生産されたプルトニウムを軍事用に転用することが禁じられている。

Q. 実験に使われた原子炉級プルトニウムはどこから供給されたのか。
A. プルトニウムは1958年米英相互防衛協定にもとづき、英国から供給された。

Q. この核実験に実際に使われたプルトニウムの同位体成分比は?
A. 特定の核兵器、核実験に使われたプルトニウムの同位体成分比は公開しないことになっている。情報公開することで核拡散を目論むものを助けることになる。それを防止するためだ。

【以上】

 少し、追加的コメントをしておこう。
・前回書いた今井隆吉が軍縮局に招かれ、説明を受けたのは、この内容だったと推定される。核物質が英国から供給された、との情報も符合する。今井はそれを信じなかった、というか、信じたくなかったので、この内容をそのまま、我が国関係者に伝えることなく、むしろ、正反対の結論を公表したのであった(前回分参照)。

・前回文献を引用し、「原子炉級プルトニウムの原爆実験が1962年に行われたことが、1977年に開示され、一般新聞 LATimes で報道されたこと、エネルギー省の公開ペーパーにもあるとの言及があるが、その資料は入手できずにいる」と書いたが、その公開ペーパーが、上記訳出のものであった。