2009年4月7日火曜日

日本人は「遠慮」、韓国人は「主張」(切抜19)

(朝日新聞 09/3/14-31)

 「新聞スクラップ」の掲載を怠ってしまった。一つには身辺事情もあるが、もう一つには、最近の新聞報道に嫌気がさしていることもある。小沢問題に起因する政局の奇妙な真空状態、北朝鮮ミサイルについての過剰報道など。じっくり新聞を読む気がしない。そんな中から拾った断片。

日韓で行動・意識に差(09/3/24 文化)
- 日本人と韓国人の対人行動を比較する日韓共同研究の結果。たとえば、「電車の座席で人と人の間に少し隙間があったら窮屈でも座りますか」という質問。年代によって違うが、60代では、日本人(東京)の21%が座るのに対し、韓国人(ソウル)は61%が座る。20代前半では、日本人28%、韓国人47%。これは「身体的接触から見た個人テリトリー意識」の問題だそうで、日本人から見ると韓国人は、自分のテリトリーを主張しすぎと映り、韓国人から見ると日本人は、相手のテリトリーに配慮しすぎと映る。01年から日韓の言語学者7人が取り組んで、東京・大阪・ソウル・プサンで、20代・40代・60代の市民2175人にアンケートをした結果だという。尾崎喜光『対人行動の日韓対照研究』 として出版されている。感情表現が激しいか、控えめかなどに日韓の差を感じていたが、対人行動面にこんなにも差があるとの研究結果は興味深い。

・(防衛大学校)校長を悩ます「田母神」応援団(09/3/16 オピニオン、コラム風考計、若宮啓文)
- 防衛大学校の五百旗頭(いおきべ)校長が、いま田母神シンパに激しく攻撃を受けているらしい。田母神問題が起きたときに、毎日新聞のコラム「時代の風」(08/11/09)で田母神氏の処分を強く支持したことが攻撃を受けるもととなった。そこで五百旗頭氏は「軍人が自らの信念や思い込みに基づいて独自に行動することは、軍人が社会における実力の最終的所有者であるだけに、きわめて危険である」と書いて文民統制の重要さを説き、戦前の苦い教訓をあげて自衛官に自重を求めた、とのこと。田母神氏は最近多方面で活躍して、まるで「野に放たれた手負いの虎」の趣がある。しかしその論旨はあまりに単純で、間違いが多い。ところが一部の右派論壇では、大もてで応援団が多数いるらしい(安倍元首相もその一人)。その田母神応援団が、五百旗頭の罷免を要求したり、嫌がらせのメール攻撃をかけたりしている。大阪で開かれた防大OB会での講演が中止されるという事件まで起きたという。近頃は右の人同士の論難合戦が目立つが、防衛庁・自衛隊関係者・即・右より思想の持ち主、という風潮が強まると、日本にとってきわめて危険である。五百旗頭氏は、高坂正尭京大教授直系の「柔らかな現実主義」者。このような人が、防衛大の教育の責任者であることは大事だ。

身の納まり(09/3/30 天声人語)
- 随筆家・幸田文が書いた「身の納まり」という言葉が紹介されている。出入りの畳職人が口にした言葉で、「腕がよくても老後に身の納まりがつかない者はよい職人といえない」と。その意味は「若い者に、自分の安らかな余生を示して安心を与え、よい技術を受け継いでもらわなくてはいけない。寒々しい老後を見せれば、若い者はこの仕事を続けていいものか不安になる。それでは失格、身の納まりがよくない」ということだ。群馬で起きた高齢者向け住宅のことを話題にして「尊厳ある老後」という文脈で、国としての身の納まりが悪いとの話につないでいるが、そのことは別として、この言葉の語感の良さと意味合いの深さに感心した。それぞれの人が、よい人生を生きたかどうかは、老後の「身の納まり」の善し悪しに顕れる。

原子力期待に応えていない、08年白書(09/3/24夕)
- 08年版原子力白書。「地球温暖化対策として原子力エネルギーが有効という国際的な共通認識が広まった」が、国内については、原発の稼働率が低下、使用済み核燃料再処理工場の本格稼働が遅れるなど、「必ずしも期待に十分応えていない」。稼働率については、新潟県中越沖地震で東電柏崎刈羽原発全7基が停止した影響。これまで発電量の約3割を占めてきた原子力の割合が07年度は25.6%に低下した。しばらくこの状態が続くのではないか。

原発の安全審査、信頼向上への中立性ルール(09/3/27 政策、コラム政策ウォッチ)
- 原発の安全審査に携わる専門家が、電力会社に手心を加えることはないか。原子力安全委員会と経産省・原子力安全保安院が、新しいルールを作った。審査に当たる専門家に電力会社などとの関わりを自己申告してもらって、審査の中立性に影響しそうな場合は外すことにした。これまでも、ある場合には原子力推進、ある場合には安全規制と二股をかけていた人は多い。どの辺に線を引くのか分からないが、関係者には電力会社からアドバイスを求められた程度の人は多かろう。大丈夫かな。

75歳以上ドライバー、6月から認知検査(09/3/26夕)
- これまで70歳以上のドライバーに義務づけられていた高齢者講習(私の経験)に加えて、75歳以上のドライバーは認知機能検査が義務となる。受検日の年月日、曜日、検査時の時刻(時計を見ずに)などを答えたり、イラスト16種(ライオン、オートバイ、ぶどうなど)を見て記憶し、順番に何があったかを答えたり、時計の文字盤に指定した時刻を示す針の位置を書き込んだりするものらしい。最近高齢者による死亡事故が増えたことから導入することが決まった。増えたということがよく話題になるが、その指摘は部分的にミスリーディングだと私は思う。ドライバーの年齢分布が高齢の方向へ寄ったため母集団が増えた。それゆえ高齢者の事故数が増えるのは当然である。年齢層別の事故率を比べたとき、高齢者の事故率が高いとのデータが本当にあるのだろうか。またこの程度の検査が果たして有効なのだろうか。

新聞よ、どこへいくのか(09/3/22 文化 100 Answers)
- 百人に聞くという2年続いたシリーズの最終回は、「現在の新聞は生き残れると思いますか」。各界の著名人に聞いている。答え。生き残れる:62人、生き残れない:8人、その他:27人、無回答:3人。私は「生き残れる」が意外に多いと思った。生き残れないとの答えは、「どんなものにも限りがある。残念ながら使命は終わったのではないか」、「圧倒的に『新聞は不要』の世代が都市部の中心に生まれている」、「(記者クラブなどの談合体質などを挙げて)今のままの形ならテレビ同様生き残らなくてもいいのではないか」。生き残れるという理由。「瞬間的メディアが増えた分、『読み返せる』、『切り取って残せる』紙の情報媒体は貴重」、「一覧性とでもいえばいいのか、ぱっと広げて、世の中全体を見渡せる感じは、新聞ならでは」、「分析力や批判力ではテレビやネットを上回る」、「(過剰で複雑化する情報を)的確なサイズと深度で提供できる、取材力、編集力を備えた組織ジャーナリズムの必要はなくならない」。その他には、「条件付きで生き残れる」という意見があり、「新聞が百年以上かけて培ってきた情報収集と報道の底力を残さねばならない」、「ネット新聞やテレビ報道のようなつまみ食い程度の情報しか得られないのならばいらない」。私はもちろん生き残れる派。新聞のない生活など考えられない。

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