2009年2月9日月曜日

「経済学」が問題に (切抜 13)

(朝日新聞 09/1/29-2/5)

 深刻な経済危機がますます進行する中で、市場原理主義・グローバリズムの名のもと、金融資本主義の暴走を許したのは、経済学そのものに問題があったのではないかという論調がめだつ。この分野には疎いのだが、私も問題意識を持つようになり、ブログ"Memorandum"のほうで書いている。ここでは、このところ目についた新聞記事を記録しておく。上記期間外のものも含める。

「日本型経営」の志 (09/1/17 夕、「窓・論説委員室から」)
ー 15年前の「今井・宮内論争」があった。今井敬・新日鉄社長「雇用に手をつけるのは、経営者が責任をとって辞めたあとだ」。宮内義彦・オリックス社長「グローバリズムの中で株主重視こそが経営者の責任」。「日本型経営」の本質は、雇用を守り抜く経営者の覚悟と志にあるのではないかと、原眞人。

資本主義の向こうに (09/1/23 夕、「窓・論説委員室から」)
ー 米英型の資本主義と、日独型の資本主義があるという。米英型は株主中心の短期利益や個人の成功を求める。日独型は労働者を含む長期的利益と集団的合意を重んじる。前者はキリギリス、後者はアリと脇坂紀行。

スミスの逆説 (09/1/29 夕、「窓・論説委員室から」)
ー 市場主義の家元とみなされる「アダム・スミス」の見直しが行われている。堂目阪大教授の『アダム・スミス』(中公新書)によると、スミスが『国富論』の前に書いた『道徳感情論』を併せ読むべき。人間には他人に「同感」する力があり、これが経済行為の行き過ぎを制御するとスミスは考えていたと、紹介するのは川戸和史。

成長機会を破壊するエトス (09/1/27 経済、経済気象台)
ー 故森嶋通夫ロンドン大学教授は、経済状態を単なる物質的基盤だけで説明すべきでなく、その社会のエトスの寄与を見なければならないと説いていた。エトス=社会が持つ価値観とか支配的な意識。過去に成功した経済を支えたエトスのままでは、日本は成長機会を失い、没落すると予言したらしい。危機の中で、日本人全体のエトスの転換が必要だ。

金融危機が与えた宿題、経済は現実に無力か、新しい理論生む契機に(09/1/31 主張、経済ノート、小林慶一郎)
− 経済学は幾多の変遷を経てきたが、現在の経済理論が今回の世界的な金融危機を扱うだけの能力がなかったことは、経済学者自身が認めざるをえない現実らしい。危機の原因となった「金融システム」がマクロ経済理論ではほとんど無視・省略されている。不動産や株式などの「資産価格」がマクロモデルで十分に扱われていない。「人間は合理的に振る舞う」という大前提が現実には崩れていたから住宅バブルが発生した。現在の金融危機はマネーの複雑怪奇な動きに起因したのだが、マクロモデルには本質的に「貨幣」が欠如している。このような小林教授の指摘には、まったく驚かされる。経済を論じてきた専門家が立脚していた理論が、そんな欠陥理論だったのか。新しい経済学の枠組みが必要になったというのは当然だろう。

西部邁さんに聞く、市場経済とは、働くとは (09/2/02 オピニオン)
ー 経済学の抽象化された論理が現実政策を支配することの危険性に警鐘を鳴らしてきた西部邁に、刈部直東大教授が、経済危機の根本問題についてインタビューしている。労働力を含めてすべてが商品にされるという経済学の考え方にずっと疑問をいだいていた。経済制度の基本は「市場」にあるとは認める。しかし、「イチバ」であった「市場」を「シジョウ」と読んだときから経済学は歪んでしまった。市場は元来そこで決まる価格に人間の関係性が表れるものだった。価格に安定性、固定性がないと、そこでの人間関係が成り立たない。近代の病という「合理主義」が問題。経済現象を合理的に計算し尽くせると考えたことが金融危機を生みだした。未来は計算通りに行かないというのが日本的経営の前提だった。安定した人間関係をつくることによって、将来予測できなトラブルが起こった時に集団で処理・解決する。それを不合理だとぶっ壊したのが構造改革。以上目についたところの抜き書き。

古典の思想家 再注目。世界不況の経済学 (09/2/07 文化)
ー 経済危機打開のヒントを求めて、近現代の経済学・経済思想の泰斗が引っ張りだこだという。上記した堂目「アダム・スミス」が大きな反響を呼んでいる。企業人の関心度が高いという。構造改革か規制緩和反対かの図式を突破する道をスミスの知恵に求めているという。ガルブレイス、ドラッカー、フリードマン、ウェーバーらが注目されている。当然ケインズも。「だれのための経済成長か」という問いが置き去りにされ、実証主義に偏る現代経済学への批判が根底にあるようだ。

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