旅の目的・意義は様々であろう。私にとって旅をする動機は好奇心である。旅をして地域なり国を見るまでは、たとえどんなに多くの情報によってイメージが作られていようと、その国・地域は抽象的存在である。一日、半日とわずかの時間であれ、その場所を訪れ、風景、都市景観、人々の表情、身振り、話ぶり、印象、豊かさ、貧しさ、匂い、湿度、日光の強弱、等々、を実体験すると、その地のイメージが鮮明に脳に焼きつく。抽象的存在だったその地が具体的なものになる。「百聞は一見に如かず」である。
それはわずかの広がりを持つ点の印象にすぎない。国・地域の中を車で移動すると、線にそった広がりのある印象に変わる。エジプトのサファガで船を降りて、バスで王家の谷などで知られるルクソールへ向かった。3時間半かかった。前半は砂漠の中の道。砂漠というより、小高い赤肌の岩山が続いた。かつてタクラマカン砂漠を横断する道を走ったことがあったが、それはなだらかに砂の隆起が続く砂漠だった。ナイルと紅海に挟まれた山地の砂漠は、かなり違う。ルクソールへの道筋の後半になると、ガラリと景色は変わった。赤い大地が緑の広がる広大な農耕地へと一変した。ナイル河が見えるよりずっと前から、ナイルの水を引き込んでいるのだろう、運河が走っていて、その道沿いを行くと、砂糖キビ畑、大麦、小麦畑、野菜畑などが広がる。集落があり、人々の暮らしが見える。ロバに乗っていく男、ロバに馬車を引かせて、砂糖キビや枯れ草を運ぶ人。砂漠と対照的に、ナイル河が人々の暮らしにもたらす恵みを実感する。ブロックを1階か2階まで積んで、それ以上の階を将来に残した半完成の家々が密集して立っている。最低必要限度の家屋に見える。貧しそう。ナイルの恵みを豊かに受け、長い歴史を持つ地域にしてこうだ。エジプトの資源(スエズ通行料、石油、観光収入など)からの利得を独り占めし、国民を貧困に留めていたムバラクの凋落の必然を理解する。
今回の旅は、アラブ首長国連邦のドバイからクルーズ船に乗り、アラビア半島の南をぐるりと回り、紅海に入り、スエズ運河を通過して、地中海に出、イタリアのサボナ港までの船旅である。アラビア半島では、東岸と南岸にある湾岸諸国のあちこちに寄港する。紅海西岸にあるサファが寄港については上に書いた。紅海ではさらにその奥にあるシナイ半島の東岸を遡上して、どんずまりに僅かばかり顔を出しているヨルダン、イスラエルの港から、それぞれの国の内陸に至り、それぞれペトラ遺跡と死海を訪問した。再び南下し、失脚したムバラク前大統領が隠棲するというシャルム・エル・シェイクから、内陸のシナイ山を訪ねた。シナイ半島は娥々たる山々が連なっていた。こんな不毛の山地を、モーセに連れられ、イスラエルの民は長い年月彷徨い歩いたのだろうか。
そしてスエズ運河。中東、さらにはアジアと、地中海さらにはヨーロッパとをつなぐ動脈の役割の水路。日本が明治に入る頃完成されて、明治初年以降、ヨーロッパへ先進制度や文化などを学びに出かけた人々が、当時唯一の手段であった船旅でここを通過した。彼らはどんな想いでこの運河を見たことだろうか。時代を経ながらも、そこを同じように通過する感慨。航空機で一飛びするのが当たり前の現代、こんな経験は稀有なのかもしれない。
地中海世界にはかねてから特別の関心を抱いていた。西端のジブラルタルからトルコまで、地中海沿いに海岸を連ねる国々と、主だった海沿いの都市を訪れている。地図をジグゾウパズルにしたとすると沿岸のコマは全部つながっている。今度はそこにスエズ運河からアラビア半島周りの大きなパズル片群が繋がった。
国や地域が孤立してものとしてでなく、地続きのものとして実感できるこの手応えは、私にとっては貴重なのである。大げさにいえば、まとまりのある世界観が形成される。中東地方がどの様にヨーロッパ世界につながっているのか。どのような景観と人々の土地が、地続きで連なっているのか。そのイメージが具体的に思い浮かぶようになる。今回の旅の収穫はそれだ。それだからといって、別に何かの利得があるわけではない。ジグゾウパズルで遊ぶことに目的も利得も無いように。
旅は終わろうとしている。次はジグゾウパズルの空いている部分のどこを埋めることにしようか。
(上掲の画像は、ムバラク平和大橋。現在スエズ運河を渡る唯一の橋。2001年に日本の無償援助、日本企業の手によって完成されたもの。全長約9km、水面から橋桁までの高さ70m(世界一)、橋桁はエジプトのオベリスクをイメージ、橋の中央にはエジプトと日本の国旗が描かれている。)